【テレビのミライを創る】大分放送×電通×太陽の家 Vol.2 〜 「太陽の家カンファレンス2019」開催の経緯とこれから 〜

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【テレビのミライを創る】大分放送×電通×太陽の家 Vol.2 〜 「太陽の家カンファレンス2019」開催の経緯とこれから 〜

(左から)電通 川崎 寛氏 電通そらり 清水 恒美氏 大分放送 宮地 寛哉氏 大分放送 野上 敦史氏

これからのテレビの役割 ~社会課題に光を当てて、より良い社会を~

「テレビの世界でこれから仕掛けられそうな新しいコト」を考える、Synapseの企画【テレビのミライを創る】。今回は、大分放送と電通が、大分県別府市にある「太陽の家」とコラボして、社会における障がい者雇用のあり方を考えた「太陽の家カンファレンス2019」に、Synapse編集部が単独取材したVol.1の続編です。本カンファレンスが開催に至るまでの道のり、そしてこれからについて企画者4名にお話を伺いました。


「太陽の家カンファレンス2019」を企画した背景とは?

―今日は、「太陽の家カンファレンス2019」の企画者として、大分放送の宮地さん、野上さん、電通そらりの清水さん、電通の川崎さんにお集まりいただきました。まずは、「太陽の家カンファレンス2019、企画の経緯とこれから」について、お話を伺えればと思います。最初に、皆さんがそれぞれ「太陽の家」と出会ったきっかけについてお聞かせください。

宮地:私は、大分放送に入社して13年ほど報道部にいたので、取材を通じて「太陽の家」およびその創設者である中村先生について知りました。

中でも最も印象的なのは、中村先生の提唱で始まった大分国際車いすマラソン(以下、車いすマラソン)で、毎年この車いすマラソンの取材をしていたので、背景にある「太陽の家」、そして中村先生の存在の大きさを肌で感じることができたんじゃないかなと思っています。

野上:私は大分にUターンで当社に転職して、地元で営業を8年やりましたが、やはり入り口は車いすマラソンでした。当社でラジオ中継をしていたので、自分なりに調べていったのですが、調べれば調べるうちに、「車いすマラソンって、中村先生の大会だな」って思うようになりました(笑)。中村先生の精神とか、理念、大会の歴史を理解していないと車いすマラソンの事務局の方々とも話が通じないので、そこは勉強しましたね。

―川崎さんはどのような経緯で、「太陽の家」に興味を持たれたのでしょうか?

川崎:僕は電通のラジオテレビ局(以下、ラテ局)に在籍しているのですが、昨年の上司に「大分の車いすマラソンを見に行って、その足で太陽の家も一緒に見よう」と誘われたのがきっかけです。実際に行ってみたら、その2~3日間で心境の変化があったんです。

具体的に言うと「太陽の家」を訪問した時に、障がい者の方々が生き生きと仕事している姿を見て、人間としての何か原点みたいなものに立ち返る感覚が自分の中に生じたんですよね。

年々、ネットが台頭していることもあり、電通ラテ局としては、テレビの価値とかテレビにしかできないことは何なのかをずっと考えていたんですよね。そんな時に、「太陽の家」や、そこを定期的に取材する大分放送さんに出会って。この出会いを通じて、テレビって本来はこういうところに光を当てていけることに価値があるのではないかと思うようになったんです。

電通そらり 清水 恒美氏

―川崎さんと大分放送さんはそこで出会われたのですね。一方、清水さんは電通から移籍して、電通そらりの社長に就任されました。電通そらりは、障がいのある方の就業、雇用を促進する電通の特例子会社ですが、やはりそのお仕事を通じて、「太陽の家」についてお知りになったのでしょうか?

清水:はい、電通そらりの社長に就任するまでは、30年ほどクライアント営業の仕事をしていました。ずっと営業畑で忙しくしていたのですが、友達のお子さんが障がいを持っていて、それで私もB型事業所に行くようになったことから障がい者の就労支援について興味が芽生えたんです。

私自身そこで働く障がい者の方々と接する中で、すごくまじめでピュアで、彼らと話すことに私自身、違和感や嫌悪感も感じず、理解を深めるうちに、自分に合っているのでは、私も障がい者の方の力になれる仕事をしたい、と思いました。それで自分の会社周りを調べてみたら、障がい者の就業や雇用を促進している電通そらりという会社がある!と分かって。人事と掛け合って、出向させてもらいました。

それが今から2年半前ですね。そして1年ほど前に、川崎さんと、当時の川崎さんの上司である永井局長が突然当社に来社されて、とうとうと車いすマラソンや「太陽の家」について熱く語られました。「車いすマラソンや太陽の家にもっとスポットを当てたい!電通で何かしたい!」って。

川崎:僕としても既存ビジネスの延長線上には、広告会社としての限界を感じていたので、なにか別の視点からアクションを起こしたいなと思っていたんです。

そんな中で、「太陽の家」や車いすマラソンの存在をどのように伝えていけば、世の中にその価値を感じてもらえるのか、ということを課題として感じていて。

最初は、人材マッチングサービスとか、ビジネスにするためのアイディアについて議論を繰り返していました。でも、いきなりビジネスの形を決め込んだりするのではなく、障がい者雇用や障碍者スポーツの領域で、いろいろな課題があるのだし、実際に困っている方々が集える場としてのカンファレンスを開催して、その情報を発信してみようという事になりました。

―川崎さんが在籍しておられる部局で、そのような福祉領域のテーマを業務として動かすのは難しくなかったでしょうか?

川崎:もともとの背景として、私が所属する部局では、ローカル局のみなさんから広告以外のビジネス開発への挑戦のご相談を頂いていて、いくつかのプロジェクトを継続しています。

だからこそ、地方ならではの価値を再発見する、みたいな事をやらないといけないと思っていました。すでにそういう取り組みをしているローカル局もあるのですが、その地域内だけで完結してしまうケースが多いです。今回「太陽の家」とのご縁があってアクションを起こすことができましたが、地域外とどうつなぐか?ということを意識しながら企画しました。

野上:大分放送としては、電通さんと一緒にカンファレンスを開催することになって、あらためて「太陽の家」の価値を再発見することが出来ました。「太陽の家」って、私たち大分の人間からしてみれば、“当たり前の存在”なんです。でも電通さんが、大分の外からスポットを当てて下さり、こんなにも価値があるものだったんだ、というあらためての気づきを与えてくれました。

大分放送 野上 敦史氏

別府でサミットを開催!?

―そのような形で皆さんが、今回のカンファレンスに向けてタッグを組まれたのですね。今回のカンファレンスには、多くの企業が参加されましたが、この参加企業の輪はどのように広げていかれたのでしょうか?

清水:障がい者を雇用している企業、特例子会社などの連絡会や研修、セミナーなどが、年に数回、かなりの頻度であるんです。その場に積極的に参加していると、自然と輪が広がっていくんですよね。

たとえば、当社がカフェを始めようとした時は、カフェを運営している特例子会社をいくつも回りました。そうやって実際に足を運んで、お話をしていけば、自然と関係が深くなるんです。そこからさらに別の特例子会社を紹介してもらったりして。そうやって特例子会社の中でも志の高い社長連と懇意になり、「太陽の家」に行ってみたいという特例子会社の方も多くいて、各社に声がけをしたところ、多くの参加者が集まり、自然な流れでカンファレンスにつながっていったように思っています。

―実際にカンファレンスを開催してみて、反響はいかがでしたか?

清水:カンファレンスに参加された企業の方々は、忙しいけど意欲のある人たちばかりだから、事業所視察からワークショップまで予定をぎっしり詰め込んだ超過密スケジュールだったのですが、「もっと見学したかった」「もっと互いの課題を語り合いたかった」という声があがっています。さらには「で、来年はどうするの?」みたいな(笑)。ものすごい意欲・熱意をひしひしと感じます。

宮地:カンファレンス終了後に「太陽の家」の山下理事長にも伺ったところでは、今回のような東京をはじめとした大都市圏の企業に加えて、次回は地場の九州の企業の皆さまにも参加して頂いて、もっと輪を広げていきたいというお話もありました。

野上:大分県にカンファレンスの説明をした際に、「大分県の企業は参加しないんですか?」と職員の方からも聞かれたんです。県としても、県内企業における障がい者雇用の活性化に期待しているのだろうなと感じました。

―実際に企画された皆さまとしての感触はいかがでしたか?

野上:あのスケール感は電通さんだからこそ出せたものだと感じました。我々の発想だけでは、あそこまでの企画は生まれなかったです。

企画検討の初期段階で川崎さんからいただいた企画書には、“サミット”と書いてあったんです。「別府でサミットを開く!」って。すごい画を描くんだなぁと驚きました。我々だけでは描けないスケールでしたから。そして、今回のカンファレンス開催をご一緒して、これから先の広がりが少し見えたような気がしています。

川崎:今回関わって下さった方々には、概ね良かったという印象を持っていただけているみたいですし、自分としても手ごたえがありました。その上で、次回については開催時期も含めて、規模や誰の目線で開催するのか、そして招待するお客様の拡がりなど、色々とブラッシュアップしていく必要はあると感じています。


福祉を新しいビジネスに

―次回のカンファレンス開催に向けて、現時点でアイディアをお持ちでしたらお聞かせください。

清水:たとえばですが、当社のように特例子会社の中でも農業をしているところは、農福連携の企業連絡会を作ってるんです。具体的には、電通そらり以外だとJAL、パーソル、楽天といった企業の特例子会社が参加しています。そのメンバーでよく話すんですけど、この間はパーソルの方から「4社共通の農業ブランドを作ってみない?」というアイディアが出たんです。農福連携で作ってるものを一つのブランドとして売り出していこうよ、と。すごくいいアイディアですよね。

壮大な夢ではありますが、国としても農福連携を推進して、予算もつけているので、そういう取り組みがあれば、実際に注目していただけるのではないかと思いいます。

川崎:コンベンションのような形で障がい者雇用の取り組みをしている企業を紹介する、というアイディアもあります。もっとこのテーマに光をあてていていくためには、福祉の領域における祭典があってもいいのかな、って。さらに、別府という町の観光性も武器になると感じています。別府は日本を代表する観光地の一つなので、外国の方々に来て頂いて、福祉に関する視察・見学だけでなく、観光も楽しんでもらえるのであれば一石二鳥ですよね。

電通 川崎 寛氏

「保護より機会を

―次回のカンファレンスは来年になるのでしょうか。皆さんのお話を伺っていると、さらに良い企画に仕上がりそうな期待がふくらみます。一方で、現時点で皆さんが課題として感じておられることもあると思うのですが、いかがでしょうか?

清水:障がい者の雇用は引き続き継続する中、業務の拡大は、常に必須です。そらりは2年目から、正社員登用をしており、社員を定年まで勤務できる環境が必要です。だからこそ、これまでの枠に捉われず、異業種とも組んでいきたいと考えています。

これはテレビで見たんですけど、AIのシステム入力を知的障がい者の方が行っている企業もあるそうです。私としては考えてもみなかったことですけど、これからの時代はそういう新たな領域でも、障がい者が活躍できる社会に変わっていくのではないかと期待しています。当社にも多くの社員がいて、60歳まで雇用する責任が私にはありますので、障がい者社員の可能性を信じ、新たな事業展開の可能性を探りたいと思っています。

宮地:社会課題に対してアイディアを出し続ける、その永続的な流れを作るということを、我々ローカル局の立場としても考えていかなければならないと感じています。それはこれまでのような放送や広告ビジネスという枠組みとは異なりますが、地元を盛り上げる・応援することも我々の使命じゃないか、と。

清水:そうですね、障がい者雇用の取り組みは、東京だけではなく地方都市でも広がっていくべきですよね。東京に本社がある会社が、地方で、障がい者を雇用を市と組んで行っている会社もあります。地方都市では、雇用先が厳しいエリアもあり、また、地方創生にもつながりますよね。そんな風に、東京のような中央の大都市圏と地方とどう組めるかというのも課題の一つだと感じています。

川崎:先ほど清水さんがお話された農業のような、ものづくりの視点とは異なりますが、障がい者の方が手がけたアートって個人的にとても心にしみるものがあるんです。こういうものも何らか収益化につなげていけないかな?と思っているのですが。

清水:東京のある特例子会社では、実際にアート部がありますよ。その絵を空港に絵を貸し出したり、販売もして、利益を生んでいます。障がい者や福祉をビジネスにしちゃいけない、みたいな考えの人もいますが、そんなことないんです。打ち出し方ややりかたさえ間違えなければ、と思います。障がい者の子たちだって、みんな自分の手でしっかりとお金を稼ぎたいと考えています。だから私は「太陽の家」と出会って、すごく励みになりました。

宮地:中村先生の言葉の中に、「保護より機会を」という有名な言葉があります。その根底には、障がい者もちゃんとお金を儲けて納税しなさい、という精神があるんです。

障がい者が経済的に自立できて、ゆくゆくは「太陽の家」さえもなくなればいいという考えを中村先生はお持ちだったみたいです。1981年に開催された第1回の車いすマラソンでは、1位の選手と2位の選手が、最後に手を繋いでゴールして、同時優勝しようとしたところ、中村先生は「それはダメだ!」として、認めなかったそうです。「スポーツなんだからちゃんと競いなさい」と。

あの当時で既にそういう障がい者の方々を特別視しないという思想をお持ちだったのが、本当にすごいなと思いますし、我々が迷った時は、中村先生の精神に立ち返れば間違いないのかなとも感じています。

大分放送 宮地 寛哉氏

「太陽の家」の理念を広げて、社会を変える

川崎:我々、広告会社としても、広告業という現状から脱却して、時には事業の主体に回る勇気を持たないと生き残っていけないという危機感があります。

広告の受発注をするだけでなく、未来の社会に必要なことだと感じたことに対しては、リーダーシップや求心力を持って積極的に新しいものを生み出す活動を行っていかないと、どうしても頭打ちになってしまうと思っています。

宮地:それは当社のようなローカル局においても、川崎さんがいま仰ったことと同じような考え方が必要だと思います。大分には「太陽の家」があって、その理念が地域に根付いていて、実際に別府の町も協力してきたという素晴らしい歴史があります。でも、これからの時代は、別府そして大分という枠を超え、この素晴らしい歴史と理念を大分の外に展開して、社会が発展していけるよう、ローカル局として、化学反応を起こすような触媒的な役割も担う必要があるのではないかと思っています。

川崎:「太陽の家」はただの箱ではないので、その思想・理念を広げていくことが大事ですよね。そういう社会的な問題に、テレビというメディアが光を当てるツールとして機能していくことが、今後ますます求められていくのかもしれないと感じています。そうすることによって、色んな人にとってのより良い生活や社会に発展させていける可能性があります。僕はそういうところにテレビの可能性を感じています。

―本日は、ありがとうございました。

<了>

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