てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「伊丹十三と今野勉」篇

  • 公開日:
テレビ
#てれびのスキマ #テレビ
てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「伊丹十三と今野勉」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第50回



昨年11月に放送された『ドキュメント20min.』の「ニッポンおもひで探訪」はその鮮やかな仕掛けで大きな話題となった。

フェイクドキュメンタリーの手法で廃村となった集落の伝統行事を"再現"するというものだった。これを機に一部で再び注目されたドキュメンタリー作品がある。

それは今からちょうど50年も前に放送されたもの。舞台は同じ長野県のある集落だ。

旅人役の伊丹十三は「天が近い村」と称される新野に入っていく。山々に囲まれた谷間を抜け、下栗という小さな山村が目的地。

「下栗をこの目で見たとき、私が受けた印象は"こんなところに人間が住めるのか"ということであった。山の奥の奥の、そのまた奥の、目もくらむような急傾斜の途中に、引っかかったように民家が点在している」

伊丹本人によるそんなナレーションが入りつつ、伊丹は村人たちに話を聞いていく。

そして翌日。

山道を子供たちに囲まれて、「ムコー、ムコー」と呼ばれながら、和服の正装をした青年がやってくる。婿の行列が花嫁を迎えに来る、村独特の婚礼の儀式が行われているのだ。それが滞りなく進んでいくのを伊丹は見守っている。そして結婚式が終わり、こんなナレーションが入る。

「両親が万感の思いを話して、いつまでもいつまでも手を打ち振る中を、花嫁の行列は、山道を次第に遠ざかっていくのである。と言いたいところなのですが、実は、これは、全部、村の人のお芝居なのです」

つまり結婚式はフェイク。事前のロケハンの際、「婚礼なんかが撮れればいいんだけどな」とスタッフが聞いたのを受けて村人たちがやってくれたのだ。画面にはキャスト表なども映し出される。

最後に伊丹のナレーションはこう締めくくられる。

「えーこういうのは嘘だから放送しない方がいいとあなたは思われますかね、でも嘘を承知でも、下栗の人々が村中総出で誠意を込めて一芝居を打ってくださったということは、あくまでも現実でしょう。どうもいま思うとすべてが白日夢のように思えてくるのですがともあれ、コトの賛否はテレビをご覧のみなさまにお任せしたいと思う。では、ご機嫌よう、さようなら」

まさにフェイクドキュメンタリー。方法論や経緯は違うが、村の伝統行事を"再現"するというのは同じ。それを50年も前にやっていたというのがスゴい。

この番組を演出したのは、いまだに新作を精力的に発表し続けているテレビマンユニオンの今野勉。伊丹十三もこの頃は"テレビの人"として活躍していた。

そして、この「伊丹十三の天が近い村 ~伊那谷の冬~」が放送(1973年2月25日)された番組は『遠くへ行きたい』(読売テレビ・日本テレビ)だ。

現在放送されている『遠くへ行きたい』といえば、日曜の朝にゆったりとした時が流れるような、ごくごく平和な紀行番組というイメージ。しかしながら、この番組が始まった当初は、まったく趣が違っていたのだ。

「TBS闘争」をひとつのきっかけに生まれたテレビマンユニオンが最初期に古巣TBS以外から請け負った番組が『遠くへ行きたい』だった。その旅人役に起用したのが、同名主題歌の作詞家・永六輔だった。

永はこれまでの旅番組の常識を覆し、訪れた地方の人々の話を聞く自分をそのまま撮って欲しいと提案した。今では当たり前の手法。いわゆる街ブラ番組だが、当時の技術ではそれは難しかった。

小型のカメラがなく、移動しながら撮る場合は16ミリのフィルムカメラが使われていたが、同時録音の機能はなかった。そこで今野はアメリカから最新のカメラを取り寄せ、永の提案を実現させたのだ。それだけでも革新的なことだった。

そして同時録音ならではの"事件"が起こる。

それは第1回の岩手編。

石川啄木記念館に展示されていた、啄木が知人に借金を乞う手紙を永が声を出して読んでいるところを撮影したときだ。

手紙を読み終えた時、今野は「はい、カット」と声を上げた。それと同時に照明も消える。しかし、永は、読んだ啄木の手紙に目を向けたまま動かないのだ。そこには永の気持ちが入っていた。

今野は「はい、カット」という声も含めてそのシーンを使うことにした。案の定、試写では「NGシーンが残っている」という指摘もあったが、もちろん意図的だ。

ドラマ畑でキャリアを進んできた今野にとって、この"事件"は大きなものだった。

「ドキュメンタリー番組を作ったことのない私にとって、『はい、カット』という私の声があっても、照明が消えても、啄木の手紙を見つめ続けている永の顔こそが、まさしく、永六輔がどういう人であるかを示す『事実』だ、と見えたのです。

そして、その『事実』は、同録された私の声と照明が消える、という二つの『事実』があって、初めて解る『事実』なのです。その二つのことを示す以外に、永の顔の意味は、伝わらない、と私は思ったのです。

『事実』とは何か、『事実を知らせる』とはどういうことか、私の中に、素朴な問いがそのときから生まれたのでした」(※1)

2クールを放送すると、永六輔は降板。代わりに旅人に起用されたのが五木寛之、野坂昭如、立木義浩、そして伊丹十三だった。

行き当たりばったりのドキュメンタリー性こそ是とした永に対し、当初、伊丹は"準備"をした。いわば「仕込み」だ。ドキュメンタリーに何も用意せずに出るのが怖かったのだ。これに対しカメラマンの佐藤利明が意義を唱える。

「事前にこんな仕込んで、それを撮るだけでは、旅の出会いが撮れないじゃないですか。旅っていろんな"出会い"でしょ」(※1)

この言葉に「怖かった」と正直に吐露した伊丹は、ドキュメンタリーに"開眼"することになる。

その次の回で伊丹は「虚と実の境目」を行くことになるのだ。

それは「伊丹十三のゲイジツ写真大撮影 白樺湖ヘロヘロの巻」と題された回。

長野県の白樺高原にある白樺湖の湖畔に、伊丹の友人が建てたロッジがある。そこに泊まって、「霧の湖」として知られる白樺湖でカヌーに乗ったりする光景を撮影するというのが伊丹の企画だった。

今野がこれに対し、「白樺湖へ行ってみたら、霧が出なくて、カメラマンなどのスタッフが、万が一のために持ってきていた発煙筒を焚いて大苦労をし、その場面を別のカメラがこと細かに撮る」という"遊び"の演出を提案すると伊丹も乗った。

もちろん"遊び"といっても、その真意は、撮影における事実と虚構について考える、というところにあった。

カメラは湖で懸命に「霧」を作ろうとするスタッフたちを映し出す。

そんなニセ霧作りのすぐ後のシーンでは、本物の霧に包まれた草原が映し出されるのだ。この霧が本物だという説明は番組中一切ない。今野はその演出についてこう振り返っている。

「『本物の霧』は、確かに『事実』として存在していたものです。しかし、私たちは、それを撮ってただそのまま示したのではありません。『偽物の霧』の場面に登場した白い服のイメージ・ガールをまた登場させ、チェンバロのクラシック音楽を流しました。

『事実としての霧』に、『幽玄』などを意味づけて呈示しているのです。それを私たちは『表現』と呼んだりしています。『事実』と『虚構』の関係は、不確かなのです」(※1)

その後、今野勉と伊丹十三のコンビは冒頭にあげた『天が近い村』や『天皇の世紀』(ABCテレビ)など虚実皮膜な作品を作っていく。そして、テレビ史に残る傑作『欧州から愛をこめて』(日本テレビ)に至るのだ。

第二次世界大戦末期、海軍軍人の勝村義朗(仲代達矢)による終戦のための和平工作を主題とした作品。

実在の関係者が本人役で出演したり、物語の中でリポーター役として伊丹十三が登場したり、ドキュメンタリーとフィクションが融合した作品。のちに「ドキュメンタリードラマ」などと呼ばれるドキュメンタリーやドラマの表現方法を開拓した作品だ。

どのようにドラマとドキュメンタリーを融合させるか、今野は最初悩んだ。

「ドラマの部分の次にドキュメンタリーの部分が出てくるというような単純な方法ではなく、本当の意味でのドラマとドキュメンタリーの融合とは何か。

例えば、ある役を演じる俳優と、その役のモデル=実在の人物とが同じ場面に登場させることができるか。そこで演出家はその役と本物の人間にどう向かい合わせたらいいかを考えなければならない」(※2)

そうして俳優と実在の本人が交錯して出てくるというドキュメンタリードラマならではの特異な手法を思いつく。

リアルに感じさせながら、視聴しているほうが混乱してしまわないようにするにはどうすればいいか。そこで考え出されたのがテレビで日常的に行われている「中継の実況」だった。

その実況中継役には、今野の考えを熟知した人物である必要があった。だとすれば、それは伊丹十三しかいなかったのだ。

伊丹十三はある時期、「映画的であることよりもテレビ的であることのほうが面白い」と語っていたという。その真意を今野が代弁する。

「その面白さは何かというと、撮る方法やスタイルが映画のように決められていない点です。

映画だとドラマはドラマ、ドキュメンタリーならドキュメンタリーという風に、ジャンル毎にスタイルがあって、そこに則らないといけないというのがなんとなくある。

テレビに来るとその境がまったくなくなって、現場で考えたことがそのまま実現していく。『そんなやり方はありえないよ』とかいう話はしなくて、何でもOK。

なぜかテレビにはスタイルがなくて、逆に自分たちが作っていけばいい。それを誰かが真似してもいいし、自分たちで終わってもいい。そんな自由さが、伊丹さんにとって非常に面白かったんじゃないかな」(※3)

そう、テレビは本来、もっともっと「自由」なものなのだ。

(参考文献)

(※1)今野勉『テレビマン伊丹十三の冒険』(東京大学出版会)

(※2)志賀信夫『映像の先駆者 125人の肖像』(NHK出版)

(※3)第8回「伊丹十三賞」受賞記念  是枝裕和×今野勉対談「伊丹十三とテレビ」

<了>

関連記事