てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「後藤達彦」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「後藤達彦」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第41回

今年3月に開催され、日本中を沸かせた「WBC」。その試合中継でひときわ印象的だったのは、大谷翔平をはじめとする選手たちが、ベンチでも野球少年のように喜怒哀楽を表情豊かに見せてくれていたことだ。

そんな日本における野球中継の基礎を作ったといわれるテレビマンが、日本テレビの後藤達彦である。

彼の後輩で『世界まる見え!テレビ特捜部』(日本テレビ)などを制作した吉川圭三は、「テレビでしかできない表現を作った」4人として、井原高忠、大山勝美、細野邦彦に加えて後藤達彦をあげている。


後藤は慶應義塾大学を卒業すると、テレビ放送が開始された1953年、つまり開局の年に日本テレビに入社した。いわば、第1号の生え抜き社員のひとり。

同級生たちが当時の花形産業に就職していく中、当時はまだNHKが放送を開始したばかりで、どんな未来が待っているかわからないテレビの世界に「新しい会社でおもしろそうだから」という理由で飛び込んだのだ。

後藤といえば『11PM』(日本テレビ・読売テレビ)の初代プロデューサーとしても有名。その『11PM』のADとしてキャリアをスタートさせたハウフルスの菅原正豊は後藤との思い出を回想している。


ある日、「菅原、買い物付き合え」と言われて行った先が、島津貴子が勤めていた「西武ピサ」。当時、菅原が500円くらいのYシャツを着ていたのに対し、後藤は1万円以上のYシャツをオーダーしていたという。

「僕がこの世界でやっていこうと思ったのは。後藤さんの"1万円のYシャツ"、この感動から始まったんじゃないかな」と(※1)。生前の後藤を知る者は、生き方も考え方もスマートでダンディーだったと口をそろえる。


実は、後藤の父は京成電鉄のオーナーで、正力松太郎とも昵懇の仲。巨人軍創設の際は多額の出資をしたという(※2)。そんな関係もあってか、後藤は入局後まもなくスポーツ局に配属された。

ちなみに、日本テレビがプロ野球中継を開始したのは開局翌日の巨人vs阪神戦というから、ある時点までの日本テレビの歴史は、野球中継の歴史といっても過言ではない。

今でこそ、十数台のカメラを使って臨場感たっぷりに伝える野球中継だが、当初、球場に配置しているカメラは2台だけだった。なにしろ「局全体でカメラが五台しかなかった。ズームレンズも一台しか使えなかった」からだ(※3)。

1つはバックネット裏。ここから投手と打者を軸に球場全体を映す。もうひとつが一塁側スタンド最上段。こちらは打者が打ったボールの行方を追うのが役割だった。

つまり、単にスポーツとして中継するのならカメラは2台で十分だということだ。とはいえ、開局翌日の初中継では「初めて野球を見るスタッフも多く、カメラがボールを見失ったりしてめちゃくちゃ」だったという(※4)。


「スポーツディレクターは最大公約数を考えろ」というのが後藤達彦の哲学だった(※5)。10人の視聴者がいれば、そのすべての人たちが見たい映像を撮り逃してはいけないという考え方だ。

例えば、ホームランを打ったときに視聴者が見たいのは第一にボールの行方だ。それを逃してはいけないということだ。だからディレクターは映像に「自己主張」を入れてはいけない、と。

あくまでも忠実に試合展開を追うことが最優先事項なのだ。

一方で、ディレクターの腕の見せどころは、プレーの合間のわずかな時間。次のプレーに移るまでのわずかな時間に挿入するカットだ。それが中継の良し悪しに大きく関わってくると後藤は説いている。


1956年には3台目のカメラが置かれることになった。このとき、後藤はそのカメラを一塁側の外野席寄りに配置した。

「2カメは内野中心、3カメは外野中心」に撮ろうと考えたのだ(※6)。だが、この考えは失敗だとすぐに気づいた。これでは打球が飛んでいるのを追いかけながらカメラが切り替わるだけで、臨場感を生み出すことができなかったのだ。

思案の末、後藤は一塁側ダッグアウトの脇に置くことにした。このカメラではプレー自体よりも選手や監督たちの姿を追うようにしたのだ。


そして1957年9月1日の巨人vs中日戦。この中継は「プロ野球中継の歴史を変えた」とまで評されている。

0-0で迎えた7回裏。中日のマウンドに立っていたのは巨人打線を苦しめ続けたエース・杉下茂。対するバッターは9番でピッチャーの堀内庄。相手はピッチャー。杉下が簡単に抑えると誰もが思っていたところで、堀内が打った打球はスタンドまで届いてしまうのだ。

そのとき後藤は即座に3カメに杉下の表情のアップを撮るように命じたのだ。通常ならば、打った巨人の選手を映すのがセオリー。だが、後藤はうなだれる杉下を選んだのだ。打たれた後の投手にカメラが向けられたのは史上初のことだったという(※6)。


そう、後藤は野球中継の中に、「人間」を撮ろうと考えたのだ。プレーの合間のわずかな時間に「人間」が出る瞬間のカットを映し、野球をよりドラマチックに描くことに成功したのだ。

1958年には、今年のWBCでの大谷のように、一挙手一投足が画になるスター・長嶋茂雄が巨人に入団し、この3カメは大きな力を発揮することになった。ベンチでの表情も追うことができたのだ。

後藤達彦のこの考えは、日本テレビや野球のみならず、各局のスポーツ中継のスタンダードとして継承されていった。ちなみに日本テレビの野球中継の番組タイトルは「DRAMATIC BASEBALL」である。


(参考文献)
(※1)日本民間放送連盟・編『月刊民放』1997年7月号(日本民間放送連盟/コーケン出版)
(※2)小林信也「伝説のディレクター後藤達彦さんの話」(YouTube)
(※3)『読売新聞』1994年6月23日(読売新聞社)
(※4)『テレビ夢50年 日本テレビ50年史』(日本テレビ放送網)
(※5)福留崇広・著『テレビはプロレスから始まった―全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』(イースト・プレス)
(※6)『デイリー新潮』2023年03月10日(新潮社)


<了>

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