てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「齋藤太朗」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「齋藤太朗」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第39回

「俺が放送作家をやめたのは、お前のせいだ。とにかく才能も何もお前に搾り取られた。あのままやってたら、死んでるよ」(※1)

かつて放送作家として一時代を築いていた青島幸男に面と向かってそう言われる男こそ、日本テレビの伝説的ディレクター・齋藤太朗である。

制作に関して、自分が納得いくまでとことん修正させるため、「コイシツ(しつこい)のギニョ」などと呼ばれた。

「ギニョ」といえば『カリキュラマシーン』(日本テレビ)の名物キャラクター「ギニョさん」を思い浮かべる人もいるかもしれない。そう、その「ギニョさん」こそ、齋藤太朗であるのだ。


『カリキュラマシーン』では、子供に向けてカリキュラムを説明・解説する役回りが必要だった。もちろんタレントがその役を担ってもよいのだが、そのタレントが別の番組では人殺しの役などをやっていたのでは具合が悪い。ならばどうしたらよいか。喧々諤々の議論の最後、誰かが言った。

「齋藤さん、あんた一番カリキュラムわかってんだから、自分でやんなよ」

多数決で、反対したのは齋藤本人のみ。結果、「ギニョさん」という社内のニックネームがそのままキャラクター名となったのだ。このニックネームは、藤村有弘がつけたものだ。

『光子の窓』(日本テレビ)でフロアマネージャーとして、天井から延びたキューラインに繋がれ、上からの指示でヒョコヒョコ動く齋藤を見て、藤村がマリオネット人形のつもりで「ギニョール人形みたいだね」と言ったことに由来する(※1)。名は体を表すというが、そのフロアマネージャーの仕事こそ、ディレクター齋藤太朗の原点なのだ。


齋藤太朗は中学の頃から音楽が好きで、高校時代にはオリジナル曲などの制作もしていた。同じ高校の4年ほど先輩には作曲家のすぎやまこういちもいて、家も近所だったため、よく遊びに行っていたという。いつしか音楽にかかわる仕事をしたいと思うようになった。

大学に入ると、オーケストラの指揮者をしていた先輩が日本テレビのドラマBGMを制作していたため、その先輩に連れられてテレビ局に出入りするようになった。するとテレビ局で仕事をしたいと思うようになり、アルバイトとして日本テレビで働くようになった。

当初は、音楽課のレコード室でニュースに乗せるBGMを選曲することが仕事だったが、現場をやりたいという熱意が買われ、「ジャズ班」に配属された。そこにいたのが井原高忠、秋元近史、横田岳夫だ。


齋藤は、ここでフロアマネージャーを任されたのだ。それまでのフロマネは手の空いている人が持ち回りで担当しており、ディレクターのサインを受けてただキューを振るような仕事だった。

齋藤は、そうではなく「フロマネ」という新しい職種を作ろうと決意する。そうすれば自ずと「日本一」になれるからだ。キューのタイミングも工夫し、大道具や小道具などのスタッフとのコミュニケーションも密にした。

台本、カット割りまで覚え、すべてを把握し、現場の司令官として奮闘しているうちに、数カ月後には「フロマネをやらせたら、あいつは抜群だ」(※1)と言われるようになった。

やがて井原がディレクターをやる番組のフロマネは必ず齋藤が務めるようになっていった。井原は、なにかあるとサブコンからガンガン怒鳴ってくる。それに対し、齋藤は反論した。

「フロアの責任者は僕です。僕に怒ってください。その代わり、フロアで僕の決めたことに関しては、上で言うことを聞いてください。これは僕の仕事です」(※1)

そんな毅然とした態度をタレントたちも信頼し、彼を盛り立ててくれるようになったのだ。


一方で、齋藤太朗がもっとも影響を受けたのもまた井原高忠だった。

井原は齋藤に言った。

「おまえ、テレビっていう職業を選んだ以上、テレビに何ができるか、テレビにおまえが何を貢献できるか。それをやれなかったら、おまえ、テレビ局、選んだ意味ないだろう」(※2)

いつもテレビに「新しいもの」を作っていかなければならないという教えだった。齋藤はその教えに従い、ディレクターになってから「新しいものを作る」ことにこだわった。


『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』では、短いシークエンスのギャグが連なる全く新しいタイプのバラエティを生み出し、『カリキュラマシーン』では、子供を子供扱いしない新しい子供番組を作り上げた。さらに『ズームイン!!朝!』で日本の朝番組の風景を変え、『午後は○○おもいッきりテレビ』でお昼の風景まで変えてしまったのだ。

齋藤と『コント55号のなんでそうなるの?』や『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』(いずれも日本テレビ)で、ともに番組を作った萩本欽一は齋藤太朗をこのように評している。

「僕がテレビを本当に一生懸命やろうと教えられたのは齋藤さんよ。あの人の熱意ですよ。人間、無駄なことにこんなに一生懸命になれる人は、どんな時代でも、どんなことがあっても間違えることのない人」(※1)

萩本欽一の妥協を許さぬしつこさは、齋藤太朗の精神から教わったものだ。だから萩本は続けて言う。テレビのディレクターなるものの第1条は、「齋藤太朗であれ」と。


(参考文献)
(※1)齋藤太朗・著『ディレクターにズームイン!! ―おもいッきりカリキュラ仮装でゲバゲバ...なんでそうなるシャボン玉』(日本テレビ放送網)
(※2)note「みんなのテレビの記憶」テレビ収録にストリップを入れた訳!テレビ創世記のプロデューサー齋藤太朗の「テレビ史の内側」第2弾!テレビの価値創造の中で生まれる名番組「ゲバゲバ90分!」「なんでそうなるの?」の記憶をインタビュー!


<了>

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