てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「宮沢章夫」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「宮沢章夫」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第35回

宮沢章夫が9月12日に65歳の若さで亡くなった。

宮沢といえば、80年代にシティボーイズ、いとうせいこう、竹中直人、中村ゆうじらと結成したパフォーマンスユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で作・演出を担当し、90年代には劇団「遊園地再生事業団」を主宰。1993年には「ヒネミ」で岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家として知られる。

小説家としても芥川賞、三島由紀夫賞の候補にノミネートされ、伊藤整文学賞を受賞。

また近年ではNHK Eテレで放送された『ニッポン戦後サブカルチャー史』の講師として出演したり、ラジオ番組『すっぴん!』(NHKラジオ第1)のパーソナリティとしても活躍していた。


そんな彼が、80年代にはテレビの放送作家としても活動していたことは忘れてはならない。

1981年、大学を中退し「ブラブラ」していた頃だ。知人に紹介されてラジオ番組のはがき整理の手伝いを始め、そのまま番組の構成作家になったのがきっかけだった。

さらに大学時代からの友人である竹中直人に「今度シティボーイズのライブにゲストで出るから、コントを書かないか」と誘われ、コント台本を書き、自分で演出もするようになった。竹中とは大学時代、やけに気が合い、よく一緒にいたという。

そんな竹中がレギュラー出演していたバラエティ番組『どんぶり5656』(読売テレビ、1983~1984年放送)の最終回で「お父さんはブレードランナー」というコントを書いたのがテレビの仕事の始まりだった。

「内容は小林克也さん演じるブレードランナーが登場する、普通のホームドラマでしたね(笑)。シティボーイズが演じるレプリカントが電車に乗ってやってくるという(笑)」(※1)

「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」が結成されたのは、その翌年(1985年)のことだった。


ちょうど同じ時期に手がけていたのがシティボーイズ、中村ゆうじがレギュラー出演した幼児向け番組『パックンたまご!』(テレビ朝日)だ。宮沢は、シティボーイズが子どもたちとゲームで遊ぶコーナーを担当した。

「児童作家の人が考えたゲームをテレビ的にどう面白く見せるか、映像がどれだけ綺麗に撮れるか工夫しましたけど、ゲームの勝敗が決まって終わりではなにかつまらない。その先の展開を毎回、考えたんですよ」(※1)と回想している。

一方で、連続ものでやるつもりで書いた脚本の人形劇が、初回放送後、突然番組が打ち切られてしまったこともあったという。「視聴率も悪くなかったし、このまま続けば裏番組の『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)も追い越せると確信」(※1)していたが、何らかの事情で終了してしまった。


その未練からか、再び宮沢は幼児向け番組を手がけることになる。

それが『夢のコドモニヨン王国』(テレビ東京、1986年)だ。レギュラー出演したのはやはりシティボーイズや中村ゆうじら。演出は『パックンたまご!』を見て「こんな番組をやりたい」と漏らしていたというテリー伊藤だ。

放送時間が夜7時からだったこともあり、内容は「上半身裸の子どもたちに泥絵具を塗り、ロープに捕まって白い壁にぶつかるという、いわばアクションペインティングみたいなことをやったり、『動物大変身』コーナーでは、銀行の窓口に生きた豚を置いて、そのおでこに横一文字の線を描いて『ブタの貯金箱』とか(笑)」(※1)といった大人も意識した過激な内容で、視聴者からはクレームも来たという。

番組内で流す曲も宮沢自身が選び、当時最先端のヒップホップやハウスを流していた。主題歌「夢のコドモニヨン王国のテーマ」を歌ったのはいとうせいこうだ。

いとうせいこうについて宮沢はこう評している。

「同じことをやっても、『その人固有に持っている面白さ』というものがある。その『新しさ』は、誰が同じような真似をしようと出て来ないようなものだった。そのひとりとして、いとう君は当時、『彼じゃないと面白くない』、あるいは過去の古いものを同じようにやったとしても、『いとう君だからこそ出てくる魅力』があった。それだけいとうせいこうという存在の、80年代半ばにおける意味は大きかった」(※2)


宮沢のテレビにおける集大成的な作品が『ニッポンテレビ大学』(日本テレビ、1987年)内のコーナー「ハイブリッド・チャイルド」だ。

「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」のメンバー全員が出演し、作家として、えのきどいちろう、川勝正幸、押切伸一なども参加。演出は、後に『女王の教室』などヒット作を手掛けることとなる大塚恭司だった。ストーリーの途中に物語とは関係のない短いコントをいくつも挟むという「ラジカル」に近い構成だった。


宮沢章夫は1988年を最後にわずか7年間でテレビの放送作家から身を引いた。

その期間はあまりに短いが、自由で"新しい"笑いをテレビに持ち込み、濃厚な遺伝子をテレビに植えつけた宮沢。彼はテレビの本質を「テレビは嘘が嫌い」であることだと論じている。

「(80年代は)テレビがいくら嘘をついても、観る側はその嘘を見抜くっていうメディアの特性があきらかになっていった歴史があった。『本当のように見えて嘘』だというのももちろんあるんだけど、できるだけ嘘らしくないもの、それがテレビの特性として――もちろん70年代にすでに発見されていましたが――この頃一般化され、当然のことになっていったのです」(※2)

だからこそ、宮沢は「嘘」をつきにくい子供の面白さに注目し、テレビでそれを引き出していったのだろう。


放送作家時代はいつも無邪気に笑っていた、と述懐する宮沢。

「結局、僕の番組はごく一部の人にしか支持されなかったけど、視聴率やまわりの反応は気になりませんでしたね。『自分が観て笑える番組を作りたい』という意識で仲間たちと番組を作っていたので」(※1)

その無邪気さが、革新的な番組を生んでいったのだ。


(参考文献)

※1 『80年代テレビバラエティ黄金時代』(洋泉社)

※2 宮沢章夫・著『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)


<了>

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