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2022.9.1

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「秋房子」篇

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てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第34回

てれびのスキマ(戸部田 誠)

「てれびのスキマ」として活躍する“テレビっ子ライター”。1978年生まれ、福岡県出身。一般企業に勤めながら、趣味でテレビ関連の記事を発信するブログを執筆していたところ、水道橋博士の目に止まり、副業としてライター業を始める。以後、ライター業の拡大とともに副業から専業へ。現在は『週刊文春』『週間SPA!』『水道橋博士のメルマ旬報』などで連載中。著書に『タモリ学(2014年/イーストプレス)』『1989年のテレビっ子(2016年/双葉者)』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった(2018年/文春文庫)』『全部やれ。』『売れるには理由がある』等がある。

 


 

秋房子(あきふさし)という人物をご存じだろうか。
名前を聞いてもピンとこない人がいても、その顔を見れば知らない人はほとんどいないはずだ。
そう、「欽ちゃん」こと萩本欽一の、構成作家として活動する際の別名義である。

演者としてお茶の間への見栄えや親近感を演出するために女性口調を取り入れた萩本欽一は、「裏方」である構成作家としても女性が作った番組だと思われるように女性のような名前をクレジットさせたのだ。ちなみに本人談によると、その名前の由来は初恋の女性だという。

言うまでもなく萩本欽一は演者としても超一流だが、「裏方」であるテレビの作り手としてもやはり超一流だった。

 

萩本の鋭さのひとつは、自ら作家を育てたことだ。

まず大岩賞介、永井準、詩村博史、鈴木しゅんじの4人の大学生をスカウトし「パジャマ党」を結成した。その修業の場として立ち上げたのが、72年4月からニッポン放送で放送されていた『どちら様も欽ちゃんです』だった。そして同年10月、この番組内の人気コーナーが独立し、『欽ちゃんのドンといってみよう!』となった。

「視聴者の投稿ハガキを使って番組を作っていこうというのは、奴らが考えたんですよ。あいつらに何か面白いことを勝手にやらせたら、『ああ勘違い』とか『レコード大作戦』『ワーイシリーズ』とか、『母と子の会話』とか、ああいうのを考えた。まだ頭が軟らかくて、笑いの仕組みもよくわかってない連中しか考えつかない」(※1)

萩本はそう振り返っている。この番組がラジオでのいわゆる「ハガキ職人」文化の嚆矢になったとも言われている。

 

「あ、これはテレビの笑いだ」

萩本はこの番組をやっていく中でそう思うようになっていった。舞台や映画でできないものをやるのがテレビ。舞台や映画でハガキを読んでいたら、バカ野郎と言われるだろう、けれどテレビならできる、と(※2)。

パジャマ党を一人前にしたい一心の萩本は、企画とともに番組制作費600万円をフジテレビに持ち込み、パイロット版を制作。そのパイロット版を手土産に日本テレビに話を持っていくと、慌てたフジテレビ側は放送を即決したと言われている。

こうして1974年9月(レギュラー番組としては1975年4月)から土曜夜8時、いわゆる「土8」枠で『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が始まった。

 

番組は、ラジオと同様に視聴者の投稿をベースに作られ、当時としては前代未聞のものだった。
しかし、投稿ハガキはほとんど書き直したという。文字で書かれたものを、テレビで読む形にしなければならない。

たとえば「お母ちゃんの作ったカレーはひどい。お肉が入ってないんですよ」と書かれたものを「お母ちゃんの作ったカレー、入ってないんだもん肉が」のようにオチが後ろに来るように直す。「そこは、放送作家・秋房子の重要な仕事」(※1)だったと萩本は綴っている。おかしさというのはそこで微妙に違ってくるのだ。

 

『欽ドン』の中で最高峰の“2行コント”だ、と萩本が評すのが次のようなものだ。

子「お母ちゃん、お弁当のおかず、毎日梅干しばかりじゃないか」
母「そうかい。それでも、私、位置だけは気をつけてるんだけどね」

ラジオの場合、これでしっかりオチるが、テレビではそうはいかないと萩本は言う。これを秋房子が添削するとこうなる。

子「お母ちゃん、お弁当のおかず、毎日梅干しばかりじゃないか」
母「そうかね。それでも私、気をつけているんだよ。梅干しの位置は」

やはり「位置」というオチを一番後ろに持っていき、「チ」で終わるとキレが悪いから「は」を付け加えるのだ(※1)。こうした細かなテレビ特有の言語感覚が作家・秋房子の真骨頂だった。

「秋房子として工夫するのは、演じて、どこまで短くして、体で表現して補っている部分はセリフを削るという作業」(※1)だという。

 

その作家的発想力は、1976年10月から始まった『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日)でも大いに発揮された。

番組を立ち上げるにあたって、萩本が考えたのは「いちばん古いのは何だろう?」ということだった(※2)。テレビはとかく「新しいもの」を考えがちだ。ならば、逆を行く。その結果、導き出した答えが「お茶の間」だった。

萩本はパジャマ党に続き、鶴間政行、大倉利晴、益子強、君塚良一といった若者たちを集め「サラダ党」も結成。ブレーン集団として盤石な体制を作り上げた。それは、自らも作家・秋房子として番組に携わり、作家の重要性を熟知していたからこそに違いない。

 

萩本はやがて「視聴率100%男」と称されテレビの王様となった。

フジテレビの『欽ドン!良い子悪い子普通の子』、テレビ朝日の『欽ちゃんのどこまでやるの!』、TBSの『欽ちゃんの週刊欽曜日』、『ぴったし カン・カン』などが軒並み高視聴率を叩き出していた。
そしてそれを可能にしていたのが、パジャマ党、サラダ党、そして秋房子という作家集団の存在だったのだ。

 

(参考文献)
※1 日本放送作家協会:編『テレビ作家たちの50年』(NHK出版)
※2 ビデオリサーチ・編『「視聴率」50の物語:テレビの歴史を創った50人が語る50の物語』(小学館)

 

<了>

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