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2022.8.3

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「大橋巨泉」篇

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てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第33回

てれびのスキマ(戸部田 誠)

「てれびのスキマ」として活躍する“テレビっ子ライター”。1978年生まれ、福岡県出身。一般企業に勤めながら、趣味でテレビ関連の記事を発信するブログを執筆していたところ、水道橋博士の目に止まり、副業としてライター業を始める。以後、ライター業の拡大とともに副業から専業へ。現在は『週刊文春』『週間SPA!』『水道橋博士のメルマ旬報』などで連載中。著書に『タモリ学(2014年/イーストプレス)』『1989年のテレビっ子(2016年/双葉者)』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった(2018年/文春文庫)』『全部やれ。』『売れるには理由がある』等がある。

 


 

「野球は巨人、司会は巨泉」

王貞治&長嶋茂雄の「ON砲」全盛時代、そんな決めフレーズでテレビを席巻していたのが大橋巨泉だ。
その言葉通り、大橋巨泉といえば「司会」というイメージが強いが、元々は裏方。放送作家としてテレビに関わっていた。いや、さらに遡るとジャズ評論家でもあった。

 

子供の頃にジャズのレコードを聴いたことをきっかけにアメリカへの憧れを持った巨泉は、音楽雑誌『ダンスと音楽』に寄稿を始める。やがてその知識が買われ、ジャズ喫茶で司会をするようになっていく。

当時のジャズ喫茶は、多くの人がイメージするような静かにジャズを聴く「ジャズ喫茶」ではない。そういったジャズ喫茶も存在はしていたが、主流となっていたのは、ジャズバンドを招いて生演奏を聴くことができる店だった。

庶民がジャズに触れることのできる機会が少なかった当時、珈琲1杯の値段で生バンドの演奏を体感できる場は貴重だったため、多くの若者が押し寄せた。ジャズバンドの演奏には必ず司会が置かれたが、巨泉はそんなジャズ喫茶の中で最も権威があったジャズ喫茶「テネシー」に請われ、専属司会を務めていたのだ。

ちなみに当時のジャズ喫茶では、ジャズに限らず、ハワイアンやウエスタン、ロカビリーなどアメリカ由来の音楽を十把一絡じっぱひとからげに「ジャズ」と呼び、そういったバンドがジャズ喫茶で演奏していた。ウエスタンバンドを率いていた井原高忠もその1人だ。もちろん、井原といえば後に日本テレビで数多くの名番組を生み出す伝説的なプロデューサーである。

そんな井原からある日、突然電話がかかってきた。自分の番組を手伝ってほしいというのだ。
そこから大橋巨泉とテレビの関係が始まった。

 

最初は、井原が担当していた『ニッケ・ジャズ・パレード』(日本テレビ)という番組で流れるジャズの楽曲の訳詞だった。巨泉は、ジャズの歌詞を理解したくて英語の学校に通ったほどで、既に数百曲のレパートリーを持っていたため適任だった。

ちなみに「訳詞」ではないが、映画『嵐を呼ぶ男』の「この野郎、かかって来い!最初はジャブだ…ホラ右パンチ…おっと左アッパー…」などと台詞を入れながらジャズドラマー役の石原裕次郎が劇中で歌う同名の主題歌は、クレジット上では、監督・脚本を手掛けた井上梅次が作詞となっているが、井上の脚本をもとに曲に詞を当てはめていったのは大橋巨泉だったという(※1)。

『ニッケ・ジャズ・パレード』には、57年から2年程度関わったが、その間、巨泉はよほどのことがない限り、毎週水曜日の夜の本番に、副調整室の井原のうしろの席で立ち会ったという。ここでテレビのメカニズムを学んだ巨泉は、続いて井原が立ち上げた日本初の音楽バラエティと呼ぶべき『光子の窓』(日本テレビ)にも参加。時に端役で出演も始めた。

 

同じ頃、日本テレビでアメリカの人気番組『ペリー・コモ・ショー』(NBC)が放送されることになり、巨泉は監修者のひとりとして起用された。やはり、主に訳詞を担当したが、「アメリカのテレビの最新技術を毎週見られる役得が大きかった」(※2)という。

井原と巨泉は2人で番組を見ながら、このシーンはどうやって撮影しているのだろう、と毎回のように研究を重ねていった。

この結果、水谷良重(のちの2代目・水谷八重子)主演のバラエティショー『あなたとよしえ』(日本テレビ)の構成を任されると、「ギャグを考えるより、画面転換に凝る構成」(※2)をして存在感を増し、井原はもちろん、秋元近史や白井荘也ら井原ファミリーが演出する番組にも呼ばれ始め、『シャボン玉ホリデー』『今晩は裕次郎です』(いずれも日本テレビ)など数多くの番組で構成を担当するようになった。

 

日本テレビのみならず、他局にも活躍の場が広がっていく中、大きな転機が訪れる。
『11PM』(日本テレビ)の司会に抜擢されたのだ。

1965年に始まった『11PM』は、井原がアメリカの深夜番組をヒントに発案したワイド番組。日本において「深夜番組」という概念を作った番組だ。『11PM』=深夜番組=お色気番組というイメージも強いが、当初はかなり硬派な番組だった。けれど視聴率は大苦戦。

元々、構成作家のひとりとして参加していた巨泉は意見を求められ、今までテレビで取り上げられなかった、競馬、麻雀、ゴルフといった大人の遊びを取り上げるコーナーを作ったらどうか、と提案したのだ。そのコーナーの司会に三橋達也や高島忠夫らが候補に挙がったが、いずれも固辞され困り果てたところ、自分でやってみたらと言われ、66年4月の番組大幅リニューアルに際し、金曜日のメイン司会に抜擢されたのだ(※1)。

テレビ黎明期、放送作家からタレントへ転身する人材が相次いだが、大橋巨泉はその先駆的かつ、最も成功した例と言えるだろう。

 

また、大橋巨泉の特筆すべき点は、タレントに転身した以降も、放送作家的な仕事をその番組で為していたということだ。

『11PM』では、「月曜イレブン」の司会も担当するようになり、趣味色の強かった「金曜イレブン」に対し、お色気色が強い企画も多かった一方で、「巨泉は考える」シリーズなどでは硬派な社会問題を扱った。また『クイズダービー』や『世界まるごとHOWマッチ』(ともにTBS)でも、番組立ち上げの企画段階から関わり、卓越した企画力でテレビ史に残る高視聴率番組を生み出した。

 

「巨泉」という芸名は、元々、アイデアが泉のように湧き出るようにとつけられた俳号だが、まさに名は体をあらわす。その湧き出るアイデアと好奇心を元にした研究熱心さで、未開のテレビを開拓していったのだ。

 

(参考文献)
※1 大橋巨泉:著『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』(講談社)
※2 日本放送作家協会:著『テレビ作家たちの50年』(NHK出版)

 

<了>

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