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2022.6.6

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「妹尾河童」篇

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てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第31回

てれびのスキマ(戸部田 誠)

「てれびのスキマ」として活躍する“テレビっ子ライター”。1978年生まれ、福岡県出身。一般企業に勤めながら、趣味でテレビ関連の記事を発信するブログを執筆していたところ、水道橋博士の目に止まり、副業としてライター業を始める。以後、ライター業の拡大とともに副業から専業へ。現在は『週刊文春』『週間SPA!』『水道橋博士のメルマ旬報』などで連載中。著書に『タモリ学(2014年/イーストプレス)』『1989年のテレビっ子(2016年/双葉者)』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった(2018年/文春文庫)』『全部やれ。』『売れるには理由がある』等がある。

 


 

エッセイ『河童が覗いた』シリーズや、フジテレビでドラマ化されたベストセラー小説『少年H』などで知られる妹尾河童が、元々はフジテレビ社員だったことはどれだけ知られているだろうか。

フジテレビ美術部に22年間在籍し、『夜のヒットスタジオ』や『MUSIC FAIR』を筆頭に数多くの番組の美術セット制作を手掛けていたのだ。

 

河童がフジテレビに入社したのは、まだフジテレビ開局前で「中央テレビ」と仮称で呼ばれていた1958年。開局準備を急いでいたフジテレビは即戦力を求めていた。そこで白羽の矢が立ったのが、駆け出しの舞台美術家として活動していた河童だった。

入社面接で河童は、これから入社しようとする新人とは思えぬ2つの要求を突きつけた。
「フジテレビの仕事はちゃんとやるので、社外での舞台美術の仕事もやらせてほしい」
「ずっと美術デザイナーとして働きたいので、絶対に部長や局長にしないでもらいたい」

この2つの約束をしてもらえるのなら、入社しても良いというのだ(※1)。面接官が驚きの表情を見せていたため不採用になると思った河童だが、フジテレビ側は河童の条件をのんで採用を決めた。自由な時間に局に来て仕事をする河童を、同僚の社員たちはフリーランスのデザイナーだと勘違いしていたという。

 

小さい頃から絵を描くことが好きだった河童は、中学校を卒業すると看板屋に勤めるようになった。2年後、絵とレタリング技術が見込まれ、大阪朝日会館の企画宣伝部でグラフィックデザイナーになった。

その頃、彼が描いたポスターを気に入ったオペラ歌手の藤原義江の勧めで上京、独学で舞台美術を学び、オペラ「トスカ」で舞台美術家としてデビューした。その後、フジテレビに入社したのだ。

 

彼の番組美術としての「代表作」といえば、何と言っても1964年の放送開始以来、現在まで続く『MUSIC FAIR』だろう。音楽番組といえば、きらびやかでド派手なセットが主流だが、『MUSIC FAIR』は驚くほどシンプルだ。けれど、画面を一目見ただけで『MUSIC FAIR』だとわかる不思議さがある。

特にこの番組が始まった頃の音楽番組のセットは、「月が~」という歌詞ならば月のセットを出すというように、歌詞に書かれたそのままの世界を構築するのがほとんどだったという。けれど、河童はそうしなかった。彼は「音楽の肌触りを映像化したい」と考えたのだ(※2)。

セットは極めてシンプル。紙をくしゃくしゃに揉んで貼り付け、凸凹になった「モミ貼り」と呼ばれる(一部では「MUSIC FAIR貼り」とも呼ばれる)壁などを駆使し、抽象的な図柄だが、照明の当て方によって無限にイメージが広がるセットを作り上げたのだ。

番組はシオノギ製薬による単独スポンサー。そのシオノギ製薬からの「シオノギの薬は流行なんかじゃなく、ずっと安定した薬だという会社の信用を売っている。だから、番組も視聴率を取ることを考えるより、長く長く続けていくようにしてほしい」(※2)というありがたくも難しい要求を叶えるために考え出した手法だった。

 

『MUSIC FAIR』では“フロアもセットの一部”という考え方だった。そのため、黒かった床を白く塗った。そのほうが照明がのりやすいからだ。カメラケーブルまで白くなっていたという。

収録後、「清掃代がかかるからやめてくれ」と会社からクレームが入ったが、河童は「『MUSIC FAIR』は床に映った影で語るんだ」(※2)と主張し、意に介さなかった。そんな経緯から、フジテレビが新しいスタジオを作った際、テレビ局で初めて最初から床が明るいスタジオになったのだという。

 

河童のデザイナーとしての優秀さを物語るのは、『MUSIC FAIR』と真逆のタイプの『夜のヒットスタジオ』(1968年~)のセットも手掛けていることだ。

河童はプロデューサーにどんな番組にしたいかを聞くと「さっきまで別の仕事をしていたタレントが、5分前にスタジオに飛び込んできて、生で唄うような生き生きした番組」(※2)だと答えた。その結果、豪華で華麗なセットチェンジが特徴の番組となった。歌手の顔のアップや、バンドを映している間にセットを全部入れ替える魔法のような演出は、大きな評判となった。

 

「僕らの頃は間違いなく面白い時代だった」と河童は振り返る。それは「始まり」だったからだ。特にフジテレビは後発局だったため「こうでなければならない」という縛りがなく、様々な試行錯誤が許された。だから「この番組はどんな表現が一番いいか」を考え抜くことが出来たのだ。

「限界に挑戦して、終わってみると肯定も否定もされたけど、それは仕方がない。『始まり』なんだから」としなやかに語る河童の胸中には、常に「今に見てろ」という反骨精神と開拓精神があったという(※2)。

「絶対に無理」と言われると「無理ではない」ことを証明せずにいられない性分(※1)が、テレビ美術の限界を軽やかに超え、新しい表現を生み出していったのだ。

 

(参考文献)
※1 志賀信夫:著『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)
※2 秋場たけお:著『昭和テレビ風雲録ーわがままカメラマンが行く‼』(扶桑社)

 

<了>

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