てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「すぎやまこういち」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「すぎやまこういち」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第24回

今年9月30日、すぎやまこういち(椙山浩一)さんが、敗血症性ショックのため90歳で亡くなった。

すぎやまといえば、『ドラゴンクエスト』シリーズなどのゲーム音楽の作曲でよく知られ、ザ・タイガースの「花の首飾り」やザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、ガロの「学生街の喫茶店」などのヒット曲を生み出した。だが、もともとはフジテレビのディレクター。すぎやまこういちは、テレビ史を語る上でも欠かせない人物なのだ。


すぎやまは子供の頃から、玩具を買ってもらうよりもレコードを買ってもらうほうが嬉しいというほどの音楽好きで、中学3年の頃にはお小遣いを貯めて、日響(日本交響楽団 現:NHK交響楽団)や東響(現:東京交響楽団)の定期演奏会の会員になりオーケストラを生で聴いていた。

音楽学校に進学することも考えたが、音大の入試にパスするほどピアノが弾けず断念し、東京大学に入学。大学卒業後、当時文化放送の芸能部長だった音楽評論家の有坂愛彦よしひこに気に入られ文化放送に入社した。「音楽学校に入ると高い授業料を払って勉強。でも、放送局に入れば現場で音楽を学びながらお給料が貰えるから、良い仕事だな」(※1)と思っていた。


フジテレビ開局を1年後に控えた1958年、「もうすぐ開局するフジテレビに行きたい人?」と問われ、真っ先に手を挙げた。ずっと生の音楽に接したいと思っていたすぎやまは、「生の音楽はテレビでしかやれないようになる」と確信していたからだ(※2)。

ちょうどその頃、すぎやまはコマ劇場でクレイジーキャッツを目にした。「これはホンモノだ」。スターの芽を感じ取ったすぎやまは、すぐに楽屋へ行きマネージャーに話をつけた。それで生まれたのが『おとなの漫画』だ。フジテレビ開局翌日の1959年3月2日から約5年間、毎日(途中から月~土曜日)お昼に生放送された。内容はその日の新聞記事をもとにした時事風刺コント。それを演じたのがクレイジーキャッツであり、この番組により彼らの知名度は飛躍的に高まっていったのだ。


すぎやまは「日本の喜劇王」エノケンこと榎本健一や、アメリカのお笑いコンビであるアボット&コステロ、エンターテイナーのダニー・ケイなどの大ファンでコメディ好き。古今亭志ん生らに心酔して落語家を目指そうと思ったことがあるほどのお笑い好きだったため、この番組を企画した。

脚本を書いていたのはすぎやまの中学時代の同級生で親友だった青島幸男。すぎやまと青島とハナ肇の3人で、その日の朝刊を見てどの記事をネタにするか決め、そのままリハーサルをして本番を迎えるという強行軍だった。局が用意した他の気鋭の作家陣とは肌が合わなかったのか、助っ人には他局TBSの局員である砂田実を「青山浩」として起用したりもした。

砂田はすぎやまや青島と東京都立武蔵中学校(現:東京都立武蔵丘高等学校)の同級生で、すぎやまは砂田の自宅によく遊びに行っていた。当時、砂田の父は東京で5本の指に入るほどのレコードコレクターであり、壁一面に広がるレコードにすぎやまは夢中になった。ちなみに砂田は「浅沼稲次郎刺殺事件」をコントにしたことで、右翼の街宣車がフジテレビ玄関に乗り付ける事態になり、局幹部から問題視され降板した(※3)。


続いてすぎやまが立ち上げた番組が『ザ・ヒットパレード』だった。1959年6月から1970年まで続き、渡辺プロダクション(以下「渡辺プロ」)を「帝国」と呼ばれるまでに引き上げた番組だ。

音楽好きのすぎやまはラジオで人気の音楽ヒットランキング番組をテレビ番組化したいと考えていた。だが、局上層部はこの企画に首を縦に振ることはなかった。

「テレビでは無理だよ。ヒットを出した歌手を揃えるのは不可能だろ。ラジオならレコードをかければいい。けれど、テレビでは画がないとダメなんだ」

すぎやまは「他の歌手に歌わせればいいんです」と食い下がったが、上司は「ダメなものはダメ」と引かなかった。制作能力や予算面の問題から実現不可能と判断したのだ。


諦めきれなかったすぎやまが相談に向かったのが渡辺プロの社長 渡邊晋だった。

すぎやまは「最新のアメリカンポップスやジャズを生番組で日本人歌手に日本語で歌わせる」という企画を一通り説明すると、晋は「なるほど、その手があったか」と自身もプロのミュージシャンらしく即賛同した上でこう言った。

「番組の中身はうちが全部、提供するよ」(※4)

なんと出演者はもちろん、番組が軌道に乗るまでは制作費・出演料はタダでいいという破格の条件だった。唯一の条件が「企画制作・渡辺プロダクション」とクレジットすること。もちろんこれは日本のテレビ界初めてのことだ。一見、人情で利の少ない仕事を請け負ったかと思うがそうではない。

視聴率20%を超える人気番組となると、新人はこの番組に出て知名度を上げることができ、毎週レギュラー出演している「渡辺プロ」の名前も売れ、制作費として安定した収益を得ることができた。渡邊の先見性により「渡辺プロ」はテレビ界において絶大な力を持つことになったのだ。


もちろん、すぎやまやフジテレビにとってもこの番組は大きな財産となった。

毎週大量に送られてくるリクエストハガキから曲を決め、歌手にあわせてアレンジや訳詞などをつくっていく。すぎやまはそれも担っており、ここから「和製ポップス」と呼ばれる音楽ジャンルが誕生し、ヒットを連発。すぎやまが作曲家として独立する礎となった。ちなみに総合司会を務めていたミッキー・カーチスとは、若さゆえに衝突しあって殴り合いのケンカを繰り広げたこともあった。


「本番5分前から殴り合いになって、殴ってる最中に「あと3分です」「あと1分です」となって、身支度する間もなく「♪ヒッパレ~、ヒッパレ~」とテーマ曲が始まって、なんてこともあった。」

(ミッキー・カーチス:著『おれと戦争と音楽と』亜紀書房)



「音楽を映像化する」というすぎやまの発想と演出は、カメラワークやカット割りも画期的だった。よく曲作りで「曲先」「詞先」などといわれることがあるが、「カメラワーク先」でアレンジが決められることもあったという。カットの最後に勢いよくカメラを振るスウィッシュパンと呼ばれるカメラワークを音楽番組に取り入れたのもこの番組が最初だった(※5)。

こうした番組作りは『MUSIC FAIR』や『夜のヒットスタジオ』といったフジテレビ伝統の音楽番組に引き継がれていったのだ。


(参考文献)
※1 「JASRAC会員作家インタビュー」Vol.5
※2 稲増龍夫:著『グループサウンズ文化論』(中央公論新社)
※3 砂田実:著『気楽な稼業ときたもんだ』(エンパワメント研究所)
※4 野地秩嘉:著『昭和のスター王国を築いた男 渡辺晋物語』(マガジンハウス)
※5 『フジテレビジョン 開局50年史』(フジ・メディア・ホールディングス)

<了>

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