てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「石井ふく子」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「石井ふく子」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第18回

「橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません。」

急性リンパ腫のため4月4日、95歳で亡くなった橋田壽賀子さんの訃報に石井ふく子氏は辛い胸の内を吐露した。

「橋田さんとは60年のお付き合いです。年中喧嘩したり、相談したり、家族のように付き合ってきました。一日電話しないと『どうしたの?』と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて悔しくて、なんと言っていいかわかりません。『あなた一人でどこに行ったのよ』という思いでいっぱいです。」


石井ふく子と橋田壽賀子の出会いは、現在も『日曜劇場』の名でTBSの看板枠のひとつとなっている『東芝日曜劇場』だった。

TBSが開局してわずか1年8ヶ月後の1956年から始まったこの枠は、TBSドラマ、いや、日本ドラマの歴史のひとつの側面をあらわしていると言っても過言ではない。石井ふく子は長きにわたり、この枠でプロデューサーを務めていた。


ところで、石井ふく子が元々は女優だったことは、今ではあまり知られてはいないだろう。

義父は劇団新派で活躍した俳優の伊志井 寛。戦後の一時期、彼の後輩俳優である長谷川一夫の家で親子は居候生活を送っており、長谷川は彼女を「フーちゃん」と呼び可愛がっていた。

そんな長谷川の勧めで新東宝ニューフェイスのオーディションを受け、見事合格。女優の道を進み始めた。だが、映画の世界とは肌が合わず、女優を辞め、日本電建の宣伝部に入社。スポンサーとしてTBSに出入りしているうちに、当時テレビ演出部長だった諏訪 博に引き抜かれ、TBSに入社した。


石井が初めてプロデュースしたのは、1958年9月に『東芝日曜劇場』枠で放送された三島由紀夫原作の『橋づくし』。その後「女優シリーズ」を同枠で立ち上げ、1作目には "五社協定"( 松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社が自社専属のスタッフと俳優を他社に貸し出しすることを禁じたもの)で映画出演ができなかった山本富士子を招いた『愛する』(1963年12月1日)を手掛けた。

「女優シリーズ」8作目の『袋を渡せば』(1964年1月26日)で、初めてタッグを組んだのが橋田壽賀子だった。彼女にとってこの作品は、テレビドラマの脚本デビュー作にあたる。


そして1964年、2人は運命的な作品に出会う。

石井が出版社の友人と会っていた時だ。その友人が大事そうに、まだ発行前のゲラ(校正刷り)の入った封筒を持っていた。それを読ませてほしいと頼み込んだ石井は、その原稿を読んでいくうちに目の色を変えていった。

「お願いだからドラマ化させて」(※1)

石井はすぐに懇願した。その原稿こそ、死を目前にした大島みち子と恋人の河野實が交わした書簡集『愛と死をみつめて』だった。

石井がその作品をドラマ化するにあたり、脚本家に指名したのが、まだ駆け出しで無名だった橋田壽賀子だったのだ。主人公も、当時まだ新人だった大空眞弓と山本 學を大抜擢した。『東芝日曜劇場』では初の前後編もの。これが大評判を呼び、再放送の視聴率が初回放送を上回り、1年間に4度も再放送されるほどだった。

ここから石井ふく子と橋田壽賀子の名コンビが誕生したのだ。


「テレビドラマは脚本で決まる」という信念のもと、石井は橋田壽賀子だけでなく数多くの脚本家を発掘した。小説家として活躍していた平岩弓枝もそのひとりだ。

石井ふく子と平岩弓枝が組んだ最大のヒット作は、1970年に始まった『ありがとう』(TBS)だろう。最高視聴率は、民放ドラマ史上最高の56.3%を記録した。

主人公には、それまでドラマで見たことがない人を起用したいと考えていた。だが、なかなか適任者がいない。ある時、たまたま音楽番組で司会をしている「チータ」こと水前寺清子が目に止まった。「まず美人じゃない、どこにでもいる」感じが良かった。

しかし、彼女は既に売れっ子歌手。事務所やレコード会社に頼み込んでも、スケジュールが取れないと断られた。断られれば断られるほど、石井は水前寺清子しか考えられないと思うようになっていった。そこで石井は、本人に直接オファーをすることにした。歌番組の司会の休憩中、トイレで"待ち伏せ"し、「お出になったら5分間時間をいただきたい」と言って口説いたのだ。しかも、4週続けてだ。

石井は周りのキャスティングを全て終えた上で、水前寺清子が引き受けてくれなければ、この企画を白紙に戻す覚悟だった。その石井の熱意が伝わったのか、ついに水前寺清子側が折れ、『ありがとう』の実現に向けて動き出した。けれど、水前寺清子は演技経験が皆無。それどころか訛りもあった。それでも周りのベテラン勢が支え、ドラマは大ヒットした。


その後も石井は橋田壽賀子、平岩弓枝らと組んで『肝っ玉かあさん』、『心』、『渡る世間は鬼ばかり』(いずれもTBS)など、数多くの大ヒットホームドラマを手掛けた。

そうした中で、彼女がプロデュースする作品に多く出演する俳優たちが、たくさんの"ホームドラマの名作を世に送り出した石井ふく子"に相応しく、俗に「石井ファミリー」などと呼ばれるようになった。

「仕事というものはこれで終わったということはないのかと思いました。終わりから始まっているのかなという気がします。というのは、そこで出会った方がすごい財産じゃないですか。もったいないのでそれを次の仕事にいかしたい」(※2)

"人が財産"というその思いが、「石井ファミリー」と呼ばれる一群を生んだのだ。


(参考文献)
※1 伊東弘祐:著『ブラウン管の仕掛け人たち―テレビ最前線・現代プロデューサー事情』(日之出出版)
※2 ビデオリサーチ:編『「視聴率」50の物語』(小学館)

<了>

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