てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「桂邦彦」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「桂邦彦」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第16回

大規模な視聴者参加型サバイバルゲーム番組の先駆けとなり、早くから海外での放送やフォーマット販売(番組コンセプトや演出手法などの販売)を成功させたのが、1986~89年に放送された『風雲!たけし城』(TBS)だ。これまで約150ヶ国で放送され、視聴者側の「攻撃軍」の隊長・谷隼人の元には、いまだに海外からファンレターが来るのだという。

そんな番組を作り上げたプロデューサーが桂邦彦だ。


桂は学生時代、カントリーのバンドでギターを弾いていた。だから音楽関係の仕事をしたいと思い、音楽番組があるTBSへ1961年に入社した。

だが、彼が配属されたのは台本などを書く「文書課」だった。そこで彼は一念発起し、社員でありながらなんと自費でアメリカに留学した。アメリカの番組を学ぶためだったが、生活費もままならない。そんな時に役立ったのが学生時代にやっていた音楽だった。持ち前の大胆さと愛嬌でステージに立ち、日銭を稼いでいたのだ。

帰国するとADが足りなかった演芸番組に配属になった。立川談志、月の家圓鏡、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽といった「落語四天王」が人気を博した時代。桂文楽などの楽屋に行っては「わたくしも桂でございます」などと愛嬌を振りまき、芸人たちに愛されていった。

コントブームの時代が来ると、コント55号、ザ・ドリフターズ、てんぷくトリオといった当代随一のコントグループそれぞれのレギュラー番組を担当し、笑いの洗礼を浴びた。


MBS制作の『ヤングおー!おー!』で東京側のディレクターを務めていた縁もあり、1978年、MBSの林誠一から「東京と大阪を二元中継でつなぐ番組『サンデーお笑い生中継』を作ろう」と声をかけられ、初めてプロデュースを担当することになった。

林が大阪側に起用したのは、既に人気を博していた横山やすし。

一方、桂が東京側の司会に抜擢したのはまだデビュー間もないタモリだった。桂はタモリをいち早くお昼の生放送の司会に起用したのだ。その脇にツービートや星セント・ルイスを配した。

劇場のスケジュールの関係で、朝早くからリハーサルを行わないといけなかったため、桂は毎週土曜日の夜に浅草の旅館をおさえ、そこに出演者、作家、スタッフらを集めた。夜中から飲みながらの打ち合わせが行われ、タレントも作家もアイデアを出し合ったのだ。やがて、ムッシュかまやつのように番組とは関係のないタレントたちも集まるようになった。

この話し合いから実現した企画はもちろん、番組もあったという。



『突撃HOTスタジオ!』、『たけしのお笑いサドンデス』、そしてたけしがよくネタにした『笑ってポン!』など、ビートたけしとともに個性的で実験的な番組を作り続けていた桂。その集大成といえるのが『風雲!たけし城』だ。

当時たけしは、フジテレビには『オレたちひょうきん族』、日本テレビには『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』、テレビ朝日には『ビートたけしのスポーツ大将』、と各局に視聴率20%を超える人気番組を抱えていた。TBSにも『世界まるごとHOWマッチ』があったが、これはMBS制作。TBS自前のたけしの看板番組が欲しいという命題で白羽の矢が立ったのは、やはり桂邦彦だった。


当時、たけしが所属していた太田プロとたけし本人を口説き落とした桂は、企画内容をたけしに相談。すると思わぬ企画が飛び出した。

それは『忠臣蔵』だ。この頃、日本テレビがオールスターキャストで『忠臣蔵』を制作していた。

それを見て、たけしは「ドラマを作りたい」と言ったのだ。それも、自分が監督をやり、脇を俳優で固め、毎週、主役の大石内蔵助役をゲストでやろうというのだ。「それは面白い!」 そう思った桂はすぐに事務所に掛け合ったが、ドラマを作るスケジュールは出せないと却下されてしまった。

もしこれが実現すれば、「監督・北野武」をテレビでいち早く見れたのかもしれない。


それでも諦めなかった桂は企画を再考。たけしが『世界まるごとHOWマッチ』で知った「戦争ごっこ」がアメリカで流行っているという情報をヒントに、時代設定を戦国時代に変え、『風雲!たけし城』が誕生したのだ。攻撃軍に俳優を起用したのは、「ドラマ」という側面もあったからだ。『忠臣蔵』が頭の片隅にあったのかもしれない。

バラエティ番組のセットは、それまでは使い捨てが普通でその都度作られていた。だが、『風雲!たけし城』はTBSが所有する緑山スタジオに常設された。たまたま空いている土地があるから、そこに常設の「城」を作ってしまえばいいんだという発想の転換だった。1億とも2億ともいわれる総工費で作られた大スケールのセットは、それまでのバラエティの常識をぶち壊した。


演出方法もそれまでの視聴者参加型番組の常識を覆した。

多くの場合、数人の目立った参加者に焦点をあて、その人間性を描くことで視聴者に感情移入を促す。だが、それではこれまでの番組と変わらない。

VTRを見返すと、ターザンロープから参加者たちが落ち、次々と泥まみれになる映像が面白かった。そういった場面をつなげるようにしたのだ。

自分たちが映すのは「感動」ではない。あくまでも「笑い」なのだと。

だから、池の上の飛び石を使って向こう岸まで渡りきる「竜神池」というゲームでは、「飛び石を跳ぶときは、できるだけ全力で走ってくれ」と挑戦者たちにお願いした。その映像は立川談志からも「究極のアクションギャグ」と絶賛されたのだ。


大胆かつ軽やかに常識を覆していった桂は、『爆笑・一ッ気族!』では井森美幸にイモリの格好をさせ、その後「バラドル」と呼ばれる才能をいち早く開花させたり、『王道バラエティ つかみはOK!』では、ダチョウ倶楽部をMCに抜擢したり、事務所を独立し仕事を失っていた爆笑問題にいち早く声をかけ復活の手助けをしたりと、それら全てがその時点で成功であったとは限らないが、「いち早く」を常に実現し、その愛されるキャラクターで、多くの芸人、タレントたちに愛情を注ぎ、彼らの道を切り拓き続けていったのだ。


(参考)
・TBSチャンネル『テレビがくれた夢』「桂邦彦」2013年制作
・『映画秘宝』2010年2月号(洋泉社)


<了>

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