てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「井塚英夫」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「井塚英夫」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第15回

かつてテレビには「2時間ドラマ」という文化があった。いや、もちろん現在も2時間のドラマはつくられているが、いわゆる「2時間ドラマ」枠はほぼ消滅してしまった。


テレビ東京の『月曜プレミア8』がかろうじて残っているが、これはドラマ専門の枠ではなく、バラエティ特番も放送するもの。2019年3月にTBSの『月曜名作劇場』が終わったことで、2時間ドラマ専用レギュラー枠は、地上波民放にはなくなった。

"大量生産"ゆえの、良くも悪くもそこはかとないユルさと気軽さが魅力のひとつであったが、それが時代に合わなくなってしまったのか、あるいは、つくる余裕がなくなってしまったのか(BSなどではいまだにキラーコンテンツとして再放送がたくさんされているので、おそらく後者の理由のほうが大きいのだろうが)、「2時間ドラマ」は、姿を消してしまった。

しかし、以前はテレビ朝日の『土曜ワイド劇場』と日本テレビの『火曜サスペンス劇場』が熾烈なライバル争いを繰り広げたように「2時間ドラマ」は数多くつくられていた。

ピークともいえる80年代末では日本テレビの『木曜ゴールデンドラマ』、『火曜サスペンス劇場』、『水曜グランドロマン』、TBSの『土曜ドラマスペシャル』、『月曜ドラマスペシャル』、フジテレビの『男と女のミステリー』、テレビ朝日の『土曜ワイド劇場』、『火曜スーパーワイド』とほぼ毎日2時間ドラマが放送されていたのだ。


乱立した結果、少しでも内容を伝え見てもらおうと「2時間ドラマ」の代名詞ともなった、やたら長いラ・テ欄が誕生していくこととなった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂:著)によるともっとも長かったラ・テ欄は12年6月30日の

<緊急特別番組 追悼・地井武男さん...遺作となった主演新作を秘蔵映像と共に放送! 土曜ワイド劇場 大崎郁三の事件散歩~地図に載らない殺人ルート...真犯人は名物を食べ歩きする!?連続殺人犯を追う元刑事!>

で95文字。


ただ、これは<緊急特別番組~>の部分が特別なのでこれを例外とすると、15年5月16日の

<ショカツの女10 新宿西署刑事課強行犯係 出所した強奪犯殺害から始まる連続殺人と闇に消えた1億円の謎?15年間の苦悩と執念が入り乱れる籠城事件!!刑事を人質にとった犯人の要求とは?>

他2回の90文字が最長とのこと。


いわゆる「2時間ドラマ」の先駆けとなったのが当時はまだNETという名だった、のちのテレビ朝日だ。

元々「教育」局として免許を受けたNETは、「教養番組」という名目で外国映画を放送するのが特色のひとつになっていた。

そんな中で、淀川長治を解説に起用した『土曜洋画劇場』(のちの『日曜洋画劇場』)が1966年にスタートする。これが高視聴率を獲ったことで各局も参入。72年には民放5局全てに洋画枠が誕生した。

このペースでは放送する映画が不足してしまう。そんな中で、アメリカの手法をヒントに生まれたのがテレビ用のオリジナル映画「テレフィーチャー」をつくるという考え方だった。

そしてその放送枠として用意されたのが『土曜ワイド劇場』だったのだ。

その責任者に指名されたのが、井塚英夫だった。


井塚は『アフタヌーンショー』のディレクターを務めるなどワイドショー畑の出身。ドラマ制作の経験はほとんどなかった。にもかかわらず、井塚は制作チームにやはりドラマ未経験者ばかりを選んだという。その中には、井塚と同じくワイドショーのディレクターだった関口恭司もいた。

彼は当時を振り返りこう証言している。

「テレ朝の数少ないヒット、『モーニングショー』や『アフタヌーンショー』は、組織からはみ出した人間が集まって作ったんですよ。"今に見てろ"って気概があった。(略)はぐれ者だからさ。でも、何かやってやろうというのが現場にはありましたね」(※1)


井塚はまずドラマに「現代人の3大欲求」即ち「金銭欲・名誉出世欲・性欲」を盛り込むことをポイントに掲げた。

サスペンスといっても、犯人を当てることだけを目的にせず、女性の心理の満足、感情移入を狙うよう指示した。

そして大きな特徴は画面の明るさへのこだわりだった。

それまでサスペンスといえば暗い画面が定番だった。映画館で観るのならばそれでいいが、テレビ画面で観るお茶の間からは敬遠されてしまう。

「(井塚は)とにかく画面を明るくせよ。暗い夜道とかダメ(笑)。ベタ明かりにしろってしょっちゅう言ってた」(※1)と関口は言う。芸術性を重視する映画畑の監督には嫌がられたが、あくまでも井塚は、娯楽性を重視したのだ。

メインターゲットは20~35歳の女性。娯楽性や話題性を最優先にし、現代性のある風俗・流行も反映させるという方針を打ち立てた。まさにワイドショーで体感してきたお茶の間の肌感覚があるからこそ生まれた戦略だろう。


しかし、現場では映画出身のベテランと若手テレビマンが何度と無く衝突した。また、営業からはサスペンスでは視聴率が取れないからメロドラマにしろだの、ベテラン社員からも口を出されてしまう。そんな現場の苦労を知ってか知らずか、井塚は厳しい要求をし続けた。

頭にきた若手メンバーたちがストライキを起こしたこともあるというが、そのメンバーの一人の白崎英介はこう証言している。

「でも、老若をぶつけるのも井塚さんの深慮遠謀でね。彼は根回しの達人。局内あちこち走り回っていました」(※)

そんなぶつかり合いを経て結束を固めていった『土ワイ』チームに初のヒット作が生まれる。

それが1978年1月7日放送の天知茂主演『江戸川乱歩の美女シリーズ』第2作「浴室の美女」だ。初めて大台を突破し、20.7%の視聴率(関東地区/世帯)を獲得したのだ。

単発作品の中からヒット作が出たらシリーズ化するのは映画業界がやってきた手法だが、それを『土ワイ』も継承し、「美女シリーズ」以降、様々なシリーズが誕生した。その中には、『相棒』や『警視庁・捜査一課長』など現在は連続ドラマシリーズとなった作品も含まれる。

安定した高視聴率を叩き出すテレ朝ドラマの礎を築いたのは井塚が生み出した『土曜ワイド劇場』とその精神なのだ。


(※1)大野茂:著『2時間ドラマ40年の軌跡』(東京ニュース通信社)
(参考)サスペンスジャンキーズ:著『2時間ドラマ大事典』(三一書房)


<了>

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