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2020.8.26

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「白井荘也」篇

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てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第10回

てれびのスキマ(戸部田 誠)

「てれびのスキマ」として活躍する〝テレビっ子ライター“。1978年生まれ、福岡県出身。一般企業に勤めながら、趣味でテレビ関連の記事を発信するブログを執筆していたところ、水道橋博士の目に止まり、副業としてライター業を始める。以後、ライター業の拡大とともに副業から専業へ。現在は『週刊文春』『週間SPA!』『水道橋博士のメルマ旬報』などで連載中。著書に『タモリ学(2014年/イーストプレス)』『1989年のテレビっ子(2016年/双葉者)』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった(2018年/文春文庫)』『全部やれ。』『売れるには理由がある』等がある。

 


「あの方もバンドマンですよ。ピアノも上手い。休憩中によくジャズを弾いてくれてね。やっぱりミュージシャンの行く道というのは、単なるお笑い番組じゃない。音楽コントもあったしね。あの人がすごいのは、トリオ・ロス・パンチョスとかベニー・グッドマンとかが来日すると、必ず自分の番組に出演してもらうの。だから、僕らは近くで見ることができた。そういうところはすごく恵まれてましたね」(※1)

ザ・ドリフターズの高木ブーがそう回想する「あの方」こそ、日本テレビで「音楽番組の白井」と呼ばれたテレビマン・白井荘也氏だ。
『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』(1962~65年)、『ドリフターズ大作戦』(1969~70年)、『カックラキン大放送!!』(1975~86年)など数多くの音楽系バラエティ番組を手がけ、のちにテレビマンでありながら、マイケル・ジャクソンの日本招聘に向けた交渉を任され、マイケルの東京ドーム公演を実現させた男である。

 

白井荘也は、クラシック音楽好きの母の影響で、幼い頃からクラシック・ピアノを習っていた。高校からはジャズ・ピアノを始め、大学生になるとアルバイトとして米軍基地でピアノを弾くようになった。これを生業にできないか、と思った白井は自身の演奏をテープに録音し、日本テレビに売り込みに行った。すると、ピアニストとして番組に出演するようになった。つまり、白井のテレビデビューは“出る側”としてだったのだ。

ピアニストとしてテレビ局のスタジオに出入りしているうちに白井は、「表舞台に立つスターよりも、その裏で飛び回るスタッフ、一癖も二癖もある職人的なカメラマン、すべてを統括するディレクター、彼らが生み出す現場の緊張感に惹かれるように」なり、テレビマンという職業に憧れを持つようになった(※2)。

「なんでもいいからテレビ局でアルバイトさせてほしい」
そうしてテレビマンになった白井は、1959年4月、日本テレビに入社し、音楽部に配属された。
その年、いきなり「きみ、番組つくってみないか?」と音楽部部長に言われる。
「来週の金曜日、12時15分から30分。好きなものをやってくれ。以上」

 

そして1962年、エポックメイキングな番組が始まる。それが日本におけるオーディション番組のパイオニアと呼ばれる『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』だ。
「土曜日の夜7時30分に味の素株式会社が音楽バラエティを希望している」ということでそのディレクターとしてお鉢が回ってきたのが白井だった。
オブザーバーには青島幸男を迎えた。その青島が「ほいほいとタレントを産んでいこうよ」と発言したのをきっかけに『ホイホイ・ミュージック・スクール』という番組のタイトルが生まれた。

司会のひとりに抜擢されたのは、当時はまだ15歳だった木の実ナナ。彼女たちが演じるコントコーナーや、ゲスト歌手による歌のコーナーもあったが、番組のメインは、架空の音楽学校という設定のもと行われていたオーディションコーナー。毎回3人の素人が出演し、歌い、視聴者のハガキ投票で1位を決め、月間チャンピオンを決めるという仕組みだった。そこからまたふるいにかけられ、プロダクションに推薦され歌手の卵になっていくという、「ホイホイ」という言葉とは裏腹に、ハードルの高いものだった。

そして、この素人が歌うバックで演奏を担当していたのが、まだ無名の存在だった「ザ・ドリフターズ」だ。
白井が彼らに声をかけたときはまだ「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」という7人組のバンド。桜井輝夫をリーダーに、いかりや長介、小野ヤスシ、加藤茶、猪熊虎五郎、飯塚文男、ジャイアント吉田というメンバーだった。

白井には「これはモノになる」という直感があったという。
「正直にいえば、自分でもクレイジーキャッツに匹敵するようなバンドを育てたかったのである。このドリフターズならできるかもしれない」(※2)と。
その思惑通り、番組は常時視聴率20%を超す人気番組に成長していった。

 

だが、そんな時、思わぬ事態が起こる。「加藤とふたりで脱退したい」といかりやが申し出た。いかりやは桜井から「ザ・ドリフターズ」の名前を譲り受けたため、新生ドリフターズとして活動していきたいというのだ。
けれど、来週も放送が控えている。「どうするんだ?」と白井が尋ねると「来週までに揃える」といかりやは言う。

そうして急遽いかりやが集めたのが、元々在籍した加藤の他、荒井注、仲本工事、高木ブーだった。
つまり、多くの人が思い浮かべるザ・ドリフターズの5人がスタートしたのはこの番組からだったのだ。
加藤がコントのオチの部分を担当し「カトちゃんペッ」の原型を初めて披露したのもこの番組だった。

 

さらにこの番組には、木の実ナナのバックダンサーとして、デビューしたばかりの「ジャニーズ」も出演していた。その名のとおり、ジャニーズ事務所設立のきっかけとなった、あおい輝彦らの4人組だ。つまりは、ザ・ドリフターズとジャニーズ事務所という、その後のテレビ界の大きな潮流となるふたつの原点こそが、白井荘也の手がけた『ホイホイ・ミュージック・スクール』だったのだ。そのタイトル通り、彼らにとってテレビの「学校」だったに違いない。

 

※1 「文春オンライン」記事 2018年8月22日 https://bunshun.jp/articles/-/8625

※2 白井荘也:著『マイケル・ジャクソン来日秘話』(DU BOOKS)

<了>

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