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2020.3.25

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「白石剛達」篇

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てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第6回

てれびのスキマ(戸部田 誠)

「てれびのスキマ」として活躍する〝テレビっ子ライター“。1978年生まれ、福岡県出身。一般企業に勤めながら、趣味でテレビ関連の記事を発信するブログを執筆していたところ、水道橋博士の目に止まり、副業としてライター業を始める。以後、ライター業の拡大とともに副業から専業へ。現在は『週刊文春』『週間SPA!』『水道橋博士のメルマ旬報』などで連載中。著書に『タモリ学(2014年/イーストプレス)』『1989年のテレビっ子(2016年/双葉者)』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった(2018年/文春文庫)』『全部やれ。』『売れるには理由がある』等がある。

 


いまや「テレ東っぽい」といえば、大抵の場合、褒め言葉として使われる。他のキー局と比べ低予算のため、工夫せざるを得ず、その結果、ドラマでもバラエティでも「テレ東っぽい」と呼ぶしかない独自路線のものが多くなっていった。それが、近年、テレビ的演出過多な番組が蔓延したテレビ界の中でカウンターとして大きな評価を受けるようになった。企画性やオリジナリティの高い「テレ東っぽい」番組は、他局が模倣することも少なくない。

そんな「テレ東っぽさ」の源流のひとつは、ドラマやバラエティよりも、実はスポーツにあった。
その中心にいた人物こそ、当時の東京12チャンネル運動部部長・白石剛達氏だ。

 

名前からいかつい人物を想像させるが、実際、バリバリのアスリート。レスリングで五輪候補を争い、全日本チームの強化コーチも務めていた。
東京12チャンネルが開局したのは1964(昭和39)年。東京オリンピックが開催された年だ。その年、全日本コーチの白石は局から“スカウト”された。開局して優秀な人材を欲していたのだ。白石はこの時、35歳だった。彼には事業普及部の副部長のポストが用意されていた。

白石がテレビの仕事で初めて手応えを感じたのは『題名のない音楽会』(当時の名称は『ゴールデン・ポップス・コンサート』)だった。いまや、テレビ朝日の長寿番組だが、当初はテレ東が放送していたのだ。

この公開放送をどこでやるのがもっとも効果的なのか。白石はオリンピックの選手村に出入りしている時、ある妙案を思いついた。

「選手村だから外の人は入れない」
「新聞や雑誌の記者を呼んで、ここで外国人選手のためのコンサートを収録したら記事になるって」(※1)

思い立ったら即、行動というのが白石のモットー。レスリング時代の人脈を活かして交渉し、選手村での公開放送を実現させると、思惑通り大きな話題になった。

 

しかし、東京12チャンネルは、視聴率低迷で経営不振。1966年には放送時間も1日5時間半に大幅に縮小され、社員も大量にリストラされていた。そして1967年4月、組織の大再編を受け、編成局内にスポーツ番組を担う「運動部」が発足。白石はスポーツ番組担当の編成局編成参与に抜擢された。
実質上の社長の座についた事業本部長の村木武夫は「1にスポーツ、2にスポーツ」と東京12チャンネル再建の鍵をスポーツ番組に見出していたのだ。

白石率いる東京12チャンネル運動部は「白石一家」などと呼ばれる強固な結束力を持ったチームだった。
サッカーのワールドカップや女子サッカー、箱根駅伝などを初めて中継したのが東京12チャンネルであることは有名な話だ。もちろん、それは潤沢な予算がない局ゆえの選択だった。

東京12チャンネルもプロ野球シーズンは野球を中継していた。ペナントレース終了後は別の競技を放送するしかない。けれど、他の人気スポーツは既に他局が放映権を持っていた。
運動部は日曜昼からの3時間の枠を任され、『サンデースポーツアワー』の放送を始めた。そこで取り扱ったのが、他局では見向きもされなかったアマチュアスポーツだったのだ。

サッカー、ラグビー、テニス、アイスホッケー、棒高跳び、アメリカンフットボール、さらにはサンボまで種目は多岐にわたっていた。唯一、アマチュアスポーツを扱っていたNHKを凌駕していたのだ。

「しかも、そのほとんどは毎週生中継でやっていたわけですからね」
「『サンデースポーツアワー』が12チャンネルとアマチュアスポーツの絆を強くした。今でもテレビ東京が卓球や柔道の国際大会を放送しているのはこの番組のおかげですよ」(※1)

 

箱根駅伝は主催の読売新聞事業部から中継してくれないかと持ち込まれた。主催の系列会社の日本テレビも中継に難色を示し、もっともマラソン中継のノウハウのあるNHKのディレクターからも「本気で箱根をやる気なの?」と驚かれるほど、箱根のコースは当時のテレビ中継の機材や技術では困難な要素が多かった。しかも、当時の12チャンネルにはマラソン中継をするような装置も中継車もない。中継に不可欠なヘリコプターもなかった。

だったら工夫するしかない。そこで考え出したのは、ビデオに撮ってバイクで運び編集するという方式だった。2日に行われる往路は収録だけにして、3日の復路のゴールに合わせて時間を逆算し、ハイライトシーンをビデオで繋いで放送したのだ。ゴールシーンだけが生放送だ。万が一、バイク事故などを起こせば大変なことになるが演出を担当した「白石一家」の田中元和は意に返さなかった。

「失敗は当たり前の世界。だからこそ逆に思い切りやった」(※1)

その結果、視聴率は毎年上がり続け、遂に第59回の大会では2桁の大台に乗った。
すると、翌年、日本テレビが中継することになった。

「東京12チャンネルというビギナーがヨロヨロしながら走って、やっと日本テレビにたすきを渡したと思っていますよ。それでいいんだと思います」(※2)

そう白石は言うのだ。

 

そんな白石の原点は「アマチュアリズム」だという。いかに純粋にスポーツの良さを出すかにこだわった。
彼が自分の最高傑作と語るのが1975年10月から放送された『ヨーイドン!みんなで走ろう』だ。月曜から金曜まで夕方に5分(正味3分)だけ放送された帯番組だ。

6人の子供たちが短距離走を繰り広げる模様を1日5~6レース録画中継したシンプルな構成だ。
子供の運動会を見に行って、子供たちが一生懸命走っている姿に感動した白石は
「子供は走っているだけで絵になる。だったら、その子供たちを憧れのオリンピックの聖地で走らせたらどうなるか。これこそスポーツの原点だ」(※1)
と思いつき、子供たちを国立競技場に集めた。日本陸上競技連盟の全面協力を得てそれを実現させたのだ。

月に1回600人を集めて、1ヶ月分を撮影した。毎週月曜日に「○○小学校の○○くん、何秒」と記録を出し、次の日以降、「○○くん、更新できませんでした」「○○くん、更新しました」というふうに追っていった。番組開始当初は人集めに苦労したが、放送が始まると、出場希望者は爆発的に増えていった。やがてこの番組の水泳版『ヨーイドン!みんなで泳ごう』も交互に制作されるようになった。

素人を主役にした初期衝動に基づくシンプルな企画。まさに「テレ東っぽい」。
白石剛達は、工夫と行動力と情熱、それを下支えする人脈と「白石一家」のチームワークで、「テレ東っぽさ」の礎を築いたのだ。

 

※1 布施鋼治:著『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)

※2 ビデオリサーチ:編『「視聴率」50の物語: テレビの歴史を創った50人が語る50の物語』(小学館)

 

<了>

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