NHK 制作局開発推進 チーフ・プロデューサー 伊藤雄介 氏
2016年より不定期放送を開始したNHKのドキュメンタリー番組『ノーナレ』は、ナレーションなしで多彩なテーマを取り上げ、決して一つの「答え」を提示することはなく物語を紡ぎ上げながら観る者を引き込んでいきます。テレビ離れが叫ばれる若者からも一定の支持を得ている『ノーナレ』。番組チーフプロデューサーの伊藤さんが語る、ドキュメンタリーの世界とは?
“異色のルート”は偶然か、必然か
―NHKに入局されてから現在までの経歴をお聞かせください。
僕の経歴、普通じゃないですけど、いいですか?(笑)
普通は、ローカル局に配属されて、起承転結がはっきりとしたNHKのフォーマットに則った番組手法を学ぶのが通例なんです。
僕が最初に配属されたのは広報局制作部という部署でした。NHKにはそれまで広報局というものがなく、僕が入局した1999年に立ち上がったのです。最初に担ったのは、番宣Vの制作や、『土曜スタジオパーク』という広報番組の新人ディレクターとしての仕事でした。
―広報局制作部で初陣を切ったことでどんなことを学びましたか?
正直いうと、最初は拗ねてましたね。 なんで広報なんだって。
でも、その年に広報局が立ち上がったばかりということもあり、昭和の個性的過ぎる先輩がいっぱいいたんです。ショムニみたいな(笑)。
ある日、その先輩に、「お前、広報番組だからって仕事をバカにしてないか。番組はどこだって作れるんだ」と説教をくらいまして。偉そうに説教するけど昼過ぎまで来ないし、局に来ても本ばっかり読んでいるし、組織人としてはどうかと思うところもあるんですけど、確かに作るモノは抜群に面白いんですね。本編より面白い時もざらにありました。
これは参ったなと。そこから、心を入れ替えました。
広報という立場を逆に大いに利用させてもらって、大河ドラマから災害の報道現場、サミットからワールドカップまで、とにかく色々なところに行かせてもらって、時代を作ってきた先輩たちに会えたことが本当に財産になっています。
―ご自身の“異色さ”を実感した出来事はありますか?
新人ディレクターが集まる研修のときです。各々が企画を持ち寄るのですが、ローカル局に所属している皆が「地元経済について」などの真面目な発表をするなかで、僕が持っていったのは「歌のおばさんって誰?」という企画。
戦後すぐのNHKには「歌のおねえさん」ならぬ「歌のおばさん」がいて、その番組から「ゾウさん」のような名曲の数々が誕生したという歴史を紐解くという内容でした。
撮影とか編集も無手勝流だったんで、構成もなにもセオリーを無視して一人だけ浮いていました(笑)。でも、当時の研修の先生に「そのまま行け!」と言って頂いて、それがとても有り難かった。
―その後、現在に至るまでの経緯は?
2年半ほど広報局制作部で経験を積み、宇都宮放送局に移りました。当時は電波を出していないくらいの小さな局でした。ディレクターが三人しかいなくて、自分で作って自分で試写するなんてこともザラでしたね。
よくそんなことをやってたなと思うんですが、いま思えば、自分が作るものを常に「もう一人の自分」が客観的に見るという幽体離脱みたいな技を見つけられたかなと(笑)。
それにあまり忙しい局ではなかったのでとにかく本をよみあさっていました。沢木耕太郎さんとか村上春樹さん、宮崎駿さんの制作現場の喜びや苦労を記したエッセイを読む時間が有り余るようにあったのもラッキーなことでした。
宇都宮放送局での経験を経た後、入社6年目くらいの頃に東京に戻って、幾つかの番組を経て『クローズアップ現代』に配属されました。
―大抜擢ですね。
いえいえ。そんなことありません。赴任したとき、当時の部長に「お前、誰だっけ?」と言われたのを今でも覚えています。それくらい期待されていなかった。
なので、悪い癖なのですが、ここでもまた拗ねるわけです(笑)。
でも、当時キャスターだった国谷さんだけは、なぜか、すごく面白がってくれたんですね。「少年探偵団みたいね、あなたって」って。
『クローズアップ現代』には本当に尊敬できるプロデューサーや先輩がいっぱいいて、まさにオールドルーキーで、7年目にしてはじめて基礎的なことを教えてもらうという経験をしました。とにかく毎日が刺激的で楽しかったです。
「面白いこと」を創る方法は一つではない
―『クローズアップ現代』時代に求められたことは?
時代を見る眼、そして視点の独自性、自分にしかできないものを作る。その一言に尽きるのですが、とにかく最初の頃は、書く企画書、書く企画書ほとんどがボツなんです。「これはもうやったからダメ」「人がやらないことや、面白いことを見つけてこい!」って。
ナレーションを書く時も編集の時も「ここは何を面白いと思ったんだ?」って本当にしつこく聞かれるんですよ。毎回ムカついてました(笑)。「相手が格好いいから」とか「日本で唯一だから」とか答えていたんですが納得してくれない。
悔しいので必死に取材するんです。泣きながら。そうしているうちに「何が面白いんだ?」という質問が、自分らしい物事の捉え方、誰も見出していない面白さを発見してくるという訓練なんだってわかってきて。その訓練のおかげで今も、ネタ探しにはあまり困らないので本当に感謝しています。
―印象に残っていることはありますか?
『クローズアップ現代』のデスクだった頃に、東日本大震災が起こりました。毎日が戦場のようでした。
被災地から送られてくる映像を東京で受けて、編集して出すという毎日。ただ、現場を見てもいないのに、東京から「今の被災地の状況は…」と報じていることに、もどかしさが募って…。
居ても立ってもいられなくなって、当時の上司に「ボランティアで現地に行かせてください」と申し出たんです。
―ボランティアではどのような取り組みをされたのですか?
僕の知り合いが女川でコミュニティFM(女川さいがいFM)を立ち上げるということだったので連れて行ってもらったんです。
小さな街なので放送のノウハウを持っている経験者はほぼいない。
SNSでボランティアを募集したら集まったのが、元々は引きこもりがちだった若者たちだったんですね。「引きこもってた家が流されちゃったんで仕方なく出てきました」って笑うんです。すごく悲しみや怒りを内に抱えているはずなのに。
ああ、リアルだなって思いました。東京から見えている風景とは全然違うなって。
そこで、その引きこもりの若者たちがコミュニティFMという場を通して、どのように被災地の方々と関係性を再構築できるかという、『がんばっぺラジオ』というドキュメンタリーのシリーズを制作しました。『ラジオ』というタイトルでドラマ化され、文化庁芸術祭のテレビ・ドラマ部門で大賞を受賞しました。
―震災を機に、番組づくりに対して思うことも多かったのですね。
やり場のない不安や不満を抱えている被災地の方々に向けて、どんな番組を作ればいいのかなと考えたときに、「被災地はいまこうなっています」と一方的に伝えるだけでいいのかと、ずっとモヤモヤしていました。
実際、夜中に「死にたい」とつぶやいている人たちもいっぱいいて、女川で引きこもりから脱したいとラジオに参加した若者も多くは、現実の壁にぶつかって行方不明になっちゃったりしていたので。
いまこの時代に公共放送としてやれる番組が作りたいって当時の上司に頼み込んだんです。同じような想いを抱えた同僚たちと一緒に企画会議を重ねて『おやすみ日本 眠いいね!』という、夜、眠れない人のためのバラエティ番組が生まれました。
『クローズアップ現代』班なのにバラエティ番組をよく作らせてくれたなと。多分ですね、僕、面倒臭いんですよ(笑)。
でもそういう生意気な奴の意見を聞き入れて「やってみなはれ」と影で応援してくれる…そういう器量を持った先輩や上司に多く出会えたことは最大の宝です。
―そのときの経験が今の番組づくりにも活きていますか?
はい。今は開発推進という部署にいるのですが、『ノーナレ』 やETV特集、国際共同制作のドキュメンタリーを担当する一方で、岡崎体育さんやヤバイTシャツ屋さんと一緒に、『テンゴちゃん』という深夜の若者向けバラエティ番組を作ったりしています。
そういう意味で新人の時に身を以って学んだ「どんなところでも番組は作れる」という原体験があるからか、方法論にはあまりこだわりがありません。面白いこと、誰かが元気になれることであれば、伝え方は一つじゃなくてもいいと思っています。
番組づくりは巡る、そこで生まれた『ノーナレ』
―『ノーナレ』についてのお話を聞かせてください。
初回放送は2016年です。この番組の誕生の発端は、局内の勉強会で「NHKの作るドキュメンタリー番組が海外で賞を獲れなくなった」という問題提起がされたことでした。
―なぜ、「獲れなくなった」のでしょうか?
一つの意見として出たのが、昨今のNHKのドキュメンタリー番組は、「わかりやすさ」を求めるあまりに、ナレーションやテロップなどによる情報過多に陥っているということです。そうした要素は、海外の方から見れば理屈っぽかったり説教臭かったりして、受け入れ難い部分があるのではないかと。
―視聴者に委ねる“余白”の部分がなくなってきているということですね。
NHKのニュース企画は、インタビューシーンの前に「○○さんは××と考えているといいます」というコメントを打つことが多いのですが、入局した頃に違和感を抱いたことを思い出しましたね。
視聴者を引き付けるための手法の一つだと説明されれば、「そういうものだ」と思ってしまい、最初に抱いた素朴な疑問はいつのまにか失われていきます。
オートマチックにそういうコメントを書くようになっていた頃に勉強会に参加して、“ワクワクドキドキ”よりも“わかりやすさ”を優先することの味気なさに、改めて向き合うことになったのです。
もちろん、わかりやすく便利な番組は情報番組として必要です。
ただ、たとえて言うなら、旅をする時に舗装されていない道路の凸凹道や寄り道の楽しさってあるじゃないですか。僕は本来そういうことが好きなので、余白を残したドキュメンタリー番組を作るためにはどうすればいいのかを考え始めました。
―具体的には、どういう改革をされたのですか?
ノーナレーションなので説明できないので、現場でどんな映像や音を撮ってこられるかが勝負になるわけです。どうやったら現場にもっと緊張感を生めるか。まずロケ前に番組の設計図となる構成を書くのをやめてみようと。
編集の時もNHKのスタイルとして映像とナレーションをセットにして書き込んだ付箋をペタペタと貼って構成表を作っていたのですが、それを止めました。かっちりストーリーを決めてから撮りに行くと、素材撮りのようになってしまって、ストーリーからこぼれ落ちてしまう現場のハプニングや面白いものを拾えなくなってしまうので。
―テレビの全盛期はそのやり方だったかもしれませんね。
昔のドキュメンタリーってすごく面白いじゃないですか。
先日、NHKのドキュメンタリー番組の歴史を作ってこられた先輩たちが集まるフォーラムに呼ばれたのですが、70年代初頭のドキュメンタリー番組が「なぜ面白かったのか」を、音声という視点から科学的に分析されている先輩がいらっしゃいました。
ナレーション・現場音・インタビューの割合を番組ごとに計ると、面白い番組にはナレーションが極端に少ないと。
例えば、相田洋さんという大先輩は、30分間の番組で、ここぞっというときに一言だけナレーションを打ったりする。「わかりやすさ」とは対照的ですが、没入感と臨場感こそが面白いと思われていた文化が、70年代には確かにあったのです。
―昔にも、「わかりやすさ」が重視されていた時代もあったのでしょうか?
70年代より前のテレビ創成期は、逆にコテコテのナレーションのあるドキュメンタリーがいっぱいあったので、必ずしも全ての番組が説明しなかったというわけではないんです。
おそらく、常に「いま」を疑い、伝え方を革新していく、そういう文化があって、その繰り返しがあったのだと思います。